Entries
2013.07/28 [Sun]
八重の桜 第30話「再起への道」あらすじ&感想
[八重の桜] ブログ村キーワード

NHK大河ドラマ 八重の桜 第30回「再起への道」
最新の回のあらすじ&感想はこちらをクリック↓(「八重の桜」各話あらすじ&感想)
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
30話視聴率は12.6% 舞台はいよいよ明治へ。恨みを支えにしていては、後ろをむくばかり・・・頑張って生きていれば、いつか会津に帰れる!そんな八重の生き方が、新しい出会いを生み、未来を変えていく。復興にむけて頑張る福島と東北に熱くエールを放つ大河ドラマ”八重の桜”共に見守りつつ愛の桜前線を拡げていきたいですね!
NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/

八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
第30話あらすじ
鶴ヶ城開城から半年が過ぎた明治2(1869)年、アメリカの大学の教会で、新島襄(七五三太)が祈りを捧げていた。日本は内戦を経て、明治という新しい時代を迎え、近代化へ向け走り出したと知った襄。目的のためとはいえ内戦で多くの民の命が奪われ、憎しみは憎しみの連鎖を生まないかと心を痛める。
その頃、日本では、八重(綾瀬はるか)たちは米沢藩の知人の家の離れに身を寄せながら、食いぶちを稼ぐため反物の行商をしていた。捕らえられた尚之助(長谷川博己)からの便りはなく、八重は不安を募らせる。
ある日、八重は行商で反物を買ってくれた千代という会津女性に会いに、田村屋という商家を訪ねる。千代は、会津戦争で勇敢に戦った八重を讃え、自分も鉄砲を習いたいと言う。というのも戦で夫の命を奪った薩長への恨みを晴らすため、息子を強く育て、本懐を遂げるのだと話す千代に、世話人の田村は賊軍の負け犬に何が出来るとあざけり、会津を侮辱した。八重は頭に血がのぼり、手元にあった棍棒を薙刀がわりに田村をやりこめ、振り下ろそうとした瞬間、千代が割って入り、息子を育て上げねばならないからと詫びる。千代は生きるために田村の妾となっていたのだ。生きていれば、いつか会津に帰れる・・・生き延びるのも戦いなのだと、八重は厳しい現実を受け止めつつ千代を励ますのだった。
その後 会津藩は家老・萱野権兵衛(柳沢慎吾)の斬首という犠牲によってお家断絶を免れ、陸奥・下北半島の三万石の地に移されることが決まった。会津28万石に比べるべくもない痩せた土地で、これから二万もの人々が生きて行かねばならない。筆頭の大参事となった大蔵(玉山鉄二)は、動揺する藩士達に、「新しい藩名は斗南とする」と発表、北斗七星より南は全て帝の民であり、朝敵の汚名を晴らすまで、斗(たたかう)、という意味がこめられたことを力説し、いつの日か会津の土地を取り返そうと、藩士達は意気盛んにわきたつ。
一方、箱館の五稜郭で戦いを続けていた旧幕府軍は、萱野の処刑が執行されたのと同じ日に降伏。「鳥羽・伏見の戦い」から始まった戊辰戦争がついに終結した。新選組の土方ら多くの武士が最後の戦いに命を散らしたが、会津を追われてきた頼母はつらくとも生き抜き、会津を踏みにじった者達がどんな世を作るのか見届けることを亡き妻に誓う。
落城から丁度一年、無事に生き延びた祝いに、八重たちは郷土料理の祝い膳こづゆを作る。そんな折、斗南藩の下見へ向かう途中の大蔵が八重達を訪ねてくる。懐かしいこづゆに舌鼓を打ちながら、涙を流し会津の再興と、一年頑張って生きたことを祝い合う大蔵と八重家族。去り際に大蔵は、尚之助の伝言を伝える。「己の勝手な思いで八重さんから誇りを奪ってしまった。それを返すために斗南に八重さんが生きる会津をもう一度作りたい」その思いを胸に、斗南に行くのだ、と。 大蔵も、八重に斗南に来て 皆を支えて欲しいと言う。全ては薩摩や長州への報復のためだ。だが、八重は返事を躊躇する。薩長への恨みに押しつぶされ、田村にしたように我を忘れてしまいそうになる自分が怖いのだ。こづゆを食べておいしいと思った、ささやかなしあわせを守って暮らしたい。そして、尚之助に「待っています」と返事をことづける八重を、名残惜しげに何度も見つめ去っていく大蔵であった。
明けて明治三年三月、下北半島の海沿いを会津藩士達が斗南目指して歩いていった。
・・・ということで、次回は第31話「離縁のわけ」です。
※斗南藩とは・・・開城から約9ケ月、東京で謹慎していた容保に実子・容大(かたはる)が誕生。その5か月後、領地没収となっていた会津藩に容保を中心とした家名存続が許される。青森県東部に立藩した斗南藩は、漢詩の「北斗以南皆帝州」;北斗七星より南は全て天皇の領地、から採った藩名。それに伴い各地で謹慎していた会津藩士達も放免され、新天地に続々と移住していったが、苦しい生活を余儀なくされるのは目に見えており、会津に残るものも数多くいた。
第30話名シーン
どうだべ?奥方様に・・・

奥方?おまえさん、お武家の出か? さては会津のもんだべ
<藩主容保を生かすため戦争責任を一身に負い、斬首が決まった萱野権兵衛>
では、さらばだ・・・只一つ無念なのは、逆賊の汚名を晴らすのを見届けずに死ぬことだ

戦で奪われたものを戦で晴らすのは武士のならい・・・頼むぞ! 大蔵「ははーっ」
<戊辰戦争最後の地、函館五稜郭では>
わしは生きる・・生きるぞ千恵!

会津を踏みにじった奴らがどんな世をつくるのか、自分の目で確かめるまで!
<おちぶれ者、逆賊とののしられ・・・>
許さねえ・・会津を愚弄するものは許せねぇ! 田村「ひいいぃぃ~っ」

千代「八重さん、やめてくなんしょ!この人が死んだら、息子がいきていけない」
今は生き抜くことが戦だ、生きていればいつかきっと会津に帰れる

それを支えに生きていくべ
お家再興が決まった!新しい藩名を斗南とする。

ええっ・・・!?騒ぐ会津藩士達
<将来有望な健次郎を、謹慎所から逃がし未来を託す義兄・梶原>
梶原「にしはこの両肩に死んだ者たちの思いを背負うのだ!生き抜かねばなんねぇのだ」

しかし私一人が、長州の手を借りて謹慎所を抜け出しては、死んでった仲間達に申し訳がたちません!
母「生きなはんしょ!健次郎!みなさんのためにも、生きなはんしょ!」

兵衛「これを持って行け!我が家に代々伝わる大和太刀だ」健次郎「おじじさま!!」
はるばる訪ねてきた大蔵に喜ぶ山本家

そして、一年を生き延びた祝いに・・・
晴れの料理、こづゆ

ではいただきやんしょ

こづゆってこんなにうまかったんだべか(涙)

八重さん、斗南に来ねえか?新しい国を創るために八重さんの力を借りてぇ

わだすは怖えのです・・・恨みを支えにしていては後ろを見るばかりで 前には進めねぇのだし
八重「もうしばらくこうして生きていっては いけねぇべか?勝手な事言ってすまねえだなし・・」

いいや、俺のほうこそ・・・八重さん・・・

まだ、どこか八重に未練タラタラな大蔵
尚之助様に伝えてくなんしょ、「待っています」と

(ダメ押しの一言)はい・・・・
<一方、京の覚馬は>
「不自由な体で世話をかける・・よろしく頼む」時栄「へえ」

そして、新天地斗南を目指す会津藩士たちは下北に

雪吹きすさぶ下北の三月、藩士たちは極寒の地へ
八重の桜、こんなところが好き!感想&雑記
今日は、前半の最終回でしたね。
戊辰戦争が終結し、岩倉のいう堂々たる新しい国 ――「名実ともに明治の世」になっていく。
今回が封建社会の価値観の終わりといえましょう。
日本の第二次世界大戦後の価値観の転換のように、 めまぐるしく変わったであろうと推測できます。
しかしながら、会津戦争の籠城戦は八重に相当なトラウマを残したのですね。
「大丈夫だ、!もう弾は飛んでこねえ」と、阿鼻叫喚の地獄絵巻がフラッシュバックする八重。
皆が皆それぞれに、体と心に傷を残しながら、新天地で生きるという戦いを続けていかねばなりません。
再興とは名ばかりで、会津の地で それは許されず、陸の果て「斗南」へと行くことに。
斗南藩は表高3万石でしたが、実高は7000石という不毛の地。会津の藩士は相当つらかったでしょう。
会津戦争が終わってからも どれだけの辛酸を舐め、「生き抜く」という悲惨な戦争を余儀なくされたのかと思うと、震災後のふくしまの姿とも重なって、胸に痛みを覚えます。
「生き抜くのも戦」・・・食っていくのも戦ですが、一番の戦いは過去の自分の価値観を捨てねばならない、という戦でしょう。会津が滅びた以上、もう過去には戻れないのだという自覚をもって、いかに新時代に適合しえるか。
それこそが、生きのびる力です。
それに逆行するような、会津出身の千代という女性と八重のやりとりは胸が苦しくなるものがありました。
けれど、それも無理からぬこと。
まだまだ、藩への意識というのは大きく、個人のアイデンティティーは殆ど藩のアイデンティティーにイコールだった時代です。会津の再興で泣いて喜ぶ八重のおっかさまのリアクションを見ればわかります。
そんな中、もっとも心を打たれたのは、みねちゃんの心意気でした。ついこの間まで、うらに叱られて泣いていた幼いみねが、いつの間にか立派な会津武士のたしなみを身に着けていたこと。
どんなに貧しくても見知らぬ者に野菜のほどこしを受けるのを潔しとせず、会津を侮辱した商人に即座に「無礼者!」と怒鳴りかかったみねの紅潮した頬に、もう立派に会津の魂が育っているのを見ました。
「どんなことがあっても、会津武士のおなごとして見苦しい真似をしてはならぬ」
みねは、権八おとっぁまが出陣式で山本家の家族に言い残した言葉をしっかりと胸に刻んでいたのだ・・・
そんな会津魂の灯をたやさず生きる4人の女性と、こづゆを味わって涙する大蔵が座す小さな板の間の空間・・・そこはさながら、会津。
国とは、そこに住まう人そのもののことを指すのではないか・・・
会津人でないから それを感じることができる尚之助の言葉が、深く思い出されます。
こづゆのゆげの向こうに家族のほほえみ。こづゆが運んだささやかなしあわせのなかに、にくしみとは無縁の、大切な何かを思い出した八重。
戦う、という深い含蓄をこめ名付けられた斗南・・・優しい大蔵や、尚之助もいて、八重を慕ってくれる仲間たちもいる。けれど、そこに行けば、会津を愚弄したあの商人を殺しかけたように、怒りがむくむく湧き出して、また戦士になってしまうかもしれない。憎しみと復讐の権化となり、殺伐とした空気のなかで生きる自分を、ひょっとしたら、皆と少し離れたところにいたからこそ、八重は見とおせたのかもしれない。だから八重は、斗南への移住をいさぎよしとしなかったのかもしれません。
そして、こづゆのシーンはまた、震災後の炊き出しのシーンと重なるものがありました。
斗南への移住も、まさに、福島の原発事故の現状が、ドラマの中の会津藩ですね。
原発近くの町は、いつ帰れるかわからない。
自分の居場所を見失うような虚無感に包まれているのではないでしょうか。
復興支援のドラマだからこそ、これからも丁寧に描いていって欲しいですね。
来週はほんまもんの明治時代。舞台は京都へ移ります。
斗南に行く者、会津に残る者、京都などの新天地に活路を見出す者。いろいろな人生がそこにあります。
どんな形であっても、八重たち会津の人々の「こころの再興」への道を応援していきたいと思います。
キャスティング❤今日のフィーチャー&インタビュー
出石を旅したとき、観光案内所でいただいたパンフレットNHKステラ(特別編集版)で、出石特集と、尚之助演じる長谷川博己さんの特集記事発見♫もうご覧になった方も多いかもしれませんが、記録として、拙ブログにも留めておきたいと思います。
ちょっと破れ鍋に綴蓋ちっくで、八重と同じく鉄砲ヲタクな相方、尚之助。噛めば噛むほど味わい深い、スルメ度100%のキャラであることは間違いありません。
そんな尚之助を、ハセヒロさんは「つかみどころのない男」と称しています。
尚之助は但馬・出石藩の出身ですが、江戸の佐久間象山塾で出会った覚馬に惚れ込んで会津にやってきます。そういう意味では、物語の中でも珍しい、中立的な立場の人物なんですよね。会津にいながらも、根っこからの会津人ではないので、常にどっちつかずのポジションにいる(笑)。その立ち位置は、彼の性格にも表れている気がします。
というのも、尚之助ってつかみどころのない男だと思うんです。何を考えているのか、なかなか分からないと言いますか・・・・。
撮影が始まって約半年がたちますが(取材当時)、僕自身、まだまだ尚之助をつかみきれていないんです。(笑)

尚之助と八重ならではの夫婦関係については?
尚之助は覚馬の妹、八重と結婚しますが、八重にひかれたのは、彼女が覚馬と共通するものを持っていたからだと思うんです。周りに反対されても鉄砲への思いを曲げることなく突き進む八重の姿は、女性版覚馬と言っても過言ではないですから(笑)、おそらく、尚之助は前から八重に人としての魅力を感じていて、年月を重ねる中で、その感情が愛情へと変化していったのでしょう。結婚した後も、尚之助は八重に対して敬語を使い、八重は”だんな様”ではなく”尚之助様”と呼ぶのですが、そんな様子からも、男女という枠にとらわれず、お互いに人として尊敬し合っていることが分かります。あの時代では珍しい夫婦像ですよね。尚之助と八重ならではの形だと思います。
プロポーズも、2人ならではお少し変わったものでした(笑)。皆さん覚えているでしょうか?尚之助が「夫婦になりましょう」と言ったら、八重に「だめです」と返され、「なぜです」と食い下がるシーンを(第13回)。お互いに意志が強く、相手のことを大切に思っているからこそ、なかなかスムーズに事が運ばないんですよね。でも、断られても自分の思いをしっかりと伝える尚之助には、これまでにはない男らしさを感じました。

これは僕の勝手な想像ですが、尚之助の中では、八重への思いが強くなる一方で覚馬に対するコンプレックスも増していたように思うんです。八重が覚馬を心から尊敬しているがゆえに、「自分は覚馬のようにはなれない」と弱気になっていたと言いますか・・・・・。でも、プロポーズのときはそういった感情がすべて吹っ切れたんですよね。演じながら「尚之助、成長したなぁ」という思いがこみ上げてきて、感慨深かったです。尚之助の変化が感じられる印象深いシーンとなりました。
まだ結婚したばかりの2人ですが、やがて離婚という結末を迎えます。その理由ははっきりとは分かってはいないので、僕自身どう描かれるのかとても気になっています。自分の中では、何となく「こういう理由だったのでは?」と想像しているのですが・・・・・。ここでお話しして違っていたら恥ずかしいので、発言は控えておきます(笑)。どんな展開になるのか、楽しみにしていてください。
NHKウィークリーステラ/インタビューより
美雨のぷち・八重の桜紀行その⑬
尚之助の生まれ故郷、出石(いずし)をたずねて
尚之助の面影を追って、出石、但馬の町々を訪ねました❤
知れば知るほどに魅力的な人物、八重の夫であった川崎尚之助。
”夫であった”と過去形で話すのも寂しい限りですが、哀しい別れがあるのは覚悟していたこと。
『川崎尚之助と八重』
ある一冊の本との出会いが、どうしても出石を訪ねてみたい!という衝動に自分をかきたてました。

尚之助の育った出石という土地。
身分にかかわらず学問を学べて、町民の多くは知的水準が高く、農村出身者であっても出石で学問を修めたものが多いという、このような土壌が、尚之助のような優秀な人物を育んだことが、如実に伝わってきます。
そのお国柄については、実に情け深いもので、出石藩は幕府に忠誠を誓いながらも尊王に篤く、幕府に追われた桂小五郎を領民が匿ったことも知り 驚きました。のちに会津藩を救うために自らを犠牲にした尚之助の義と縁を重んじる一途な人物像は、この出石の気風から培われたのですね。
ふり返れば、尚之助は「広い視野で100年後を見据えた日本国のために」覚馬と夢を実現すべく会津に来たはずが、会津をめぐる戦に巻き込まれ、結果、「会津のため」に働くことになった人。また、八重のように純粋に容保を慕い従うというよりも、大局から俯瞰するように冷静な部分を持ち合わせていたのに、頑固な会津藩士の中でさぞ もどかしいものがあったろうと推察します。それでも、但馬人らしい勤勉さ、誠実さ、控えめな勇気など、八重や山本家にとって、また会津藩にとっても、どれほど頼もしい存在であったか・・・
『八重の桜』の影響はいわずもがな、ですが 今まで無名にも等しかった川崎尚之助という男性を見事に蘇らせ、「逃げた男」から「一途な男」へと真実の姿を浮き彫りにした、歴史家あさくらゆうさんの功績は、大変大きいと思います。本を読み終えたとき、尚之助の面影を追って出石という土地をぜひ訪ねてみたくなりました。
その願いが、今回、叶ったのでした。
車窓から見る出石の風景は、どこか会津に似ています。猪苗代の風景みたい

案内パンフレット(ステラ)は但馬の各観光案内所でもらえます♪
登城橋から門と出石城をのぞむ

城橋を渡り、城跡を散策していると鮮やかな朱塗りの稲荷神社が目に入ります。そこから下を見渡せばまるで江戸時代の城下町そのままの風景が広がっています。古くは仙石氏の時代から、初午の祭の三日間は城門を開き、町人でも稲荷神社への参詣が許されたことから、出石藩の庶民を大切にするお国柄が偲ばれる。
今度は逆に、三の丸(城側)から城下をのぞむ

腹がへっては戦ができぬ、で腹ごしらえ。名物、出石そば

すごいコシ。お蕎麦の”濃さ”実感!小皿五枚が基本。
出石には、こんなツウな食べ方があるらしい。

隣のテーブルの人も、寛永通宝を払っててビックリ。
出石のシンボル、辰鼓楼
登城時刻を伝えた時計台、辰鼓楼 (昔は太鼓で時を知らせたそう)

出石にいるんだけど来る?とメルしたら、次の日即行で飛んできた八重トモ♪
<尚之助が眠る、川崎家の墓のあった願成寺>

願成寺は、川崎家の菩提寺。川崎家の記録は享保年間(1720年頃)より存在する。尚之助もここで弔われたとされる。由緒ある山門は、江戸時代当初のもので、豊岡市指定文化財。山門前の眼力ある三体のダルマ大師が目印。現在は脇の門には八重の桜ポスターが貼られていました。
お寺の社務所から道路を挟んですぐ、尚之助の供養碑が。お香がたえません

暑かったので、オアシス付の籠で尚サマにお花を

尚之助のふるさと、出石の地に、顕彰と供養につながる石碑を建てようと。2013年1月、川崎家の菩提寺・願成寺の山門向かい斜面に建立された、川崎尚之助供養の碑。ご住職様によれば、尚さまの遺骨は、昔の墓から(写真の)左の仏像の下に移され、納められているそうです。最近は、ドラマの影響もあり、尚之助が好きでハセヒロさんが好きにになったファン、その逆にハセヒロファン転じて尚さまファンになった参拝客も多く訪れるという。
ご住職様が見せてくださった、尚之助のもとの墓があった頃の墓所

ご住職様から、尚之助にまつわる貴重なお話を聞くことができました
庭に見える滝は、かの沢庵(たくあん)和尚の作と伝わる

下<宗鏡(すきょう)寺。>
上の川崎家の墓のあった願成寺のすぐ隣、というか奥にある宗鏡寺。
出石藩主代々の菩提寺であり、元和2年(1616)に沢庵和尚が再興したことから沢庵寺とも呼ばれる。敷地には、山名、小出、仙石家、そして沢庵(たくあん)和尚の墓碑がある。
特記すべきは、江戸時代、川崎尚之助の祖父が献じた、一対の花灯篭が残されていること。
歴代藩主はじめ沢庵和尚の墓所もある格式高い寺。一番高い場所にある

着いたその日、疲れと暑さでボーっとなり、ホテルに帰るためタクシーの番号を聞いたかたが、偶然ご住職のお父様でした。素朴でご親切な方で、送って下さいました。私に気を使わせないようにか「丁度お孫さんの迎えがあるから」と・・・(涙)。一日がかりで出石にたどり着いたこの日は、感動と疲れで本当にボロボロで、ご好意に甘えてしまいました。あこがれの灯篭は、また明日に・・・
ということで、あくる日、花灯篭とご対面
尚之助のお祖父様が奉納された、対をなす花灯篭 信仰深い方だったのですね

御本尊は、室町時代の作。ご住職様(のお父様)、ありがとうございましたm(__)m
<尚之助の生家跡>
尚之助の生家跡 いまは化粧品屋さん。

かわいらしいおばあちゃんがお店をきりもりなさってます
八重さんとの祝言に、尚サマが八重の唇にさした紅を思い出し、口紅(マキアージュ)を買ったのですた

尚サマの声「いく、久しく・・・」(ぽ)
<旅のプラン、組合せ、何でも相談。豊岡駅の観光案内所のデキるスタッフさん>
但馬美人。豊岡駅観光案内所の、但馬のことならなんでも知ってるお姉さん。とっても親切♫

お陰様ですべてが素晴らしい旅でしたm(__)m あ、お姉さんでなくヤンママでした
<お姉さんおすすめ❤ちょっと足を延ばして隣町の城崎(きのさき)温泉へ>
明治・大正ロマン香る城崎温泉 どのお宿に泊まっても湯めぐりパスポートをもらえます

パスポートがあると有名な湯どころを十何箇所と無料で入浴できる、素敵な特典が。いい湯でした
出石(豊岡地域)のゆるキャラ玄さん。玄武岩をイメージしたすごいキャラ(マニャックだなし
)

ご当地サイダー。玄さんらしい、キレのある、シャープなお味でした(笑)
<さらに隣駅の竹野海岸に>
日本”快水”浴場100選にえらばれただけあって、透きとおった綺麗な海水とやわらかな白砂

ハイ、しっかり泳ぎますた^^ (トラフグ君や鯛、キスに会いました!)
但馬信用金庫の道路前、柳の幹の上に建てられた灯篭。歴史を感じますね

但馬では、さりげなくこういうものに遭遇します。古き佳きものを大切にするお土地柄なのですね
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
尚之助に関するレビューはこちらを参照
31話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1060.html
33話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1069.html
最終日も尚之助さんにお別れの挨拶に(お花が既にドライフラワーに!

祝言の日の尚サマ逆お姫様だっこを思い出し・・・(米俵だっこ?)
★このランキングに参加しています★ポチポチっとしてくなんしょ♪(>ω<)★(←会津語)




(>ω<)4ポチに感謝デス♪
美雨のおすすめブログ
海外旅行は体験談を参考に!

竜宮小僧の旅案内



NHK大河ドラマ 八重の桜 第30回「再起への道」
最新の回のあらすじ&感想はこちらをクリック↓(「八重の桜」各話あらすじ&感想)
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
30話視聴率は12.6% 舞台はいよいよ明治へ。恨みを支えにしていては、後ろをむくばかり・・・頑張って生きていれば、いつか会津に帰れる!そんな八重の生き方が、新しい出会いを生み、未来を変えていく。復興にむけて頑張る福島と東北に熱くエールを放つ大河ドラマ”八重の桜”共に見守りつつ愛の桜前線を拡げていきたいですね!
NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/

八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
第30話あらすじ
鶴ヶ城開城から半年が過ぎた明治2(1869)年、アメリカの大学の教会で、新島襄(七五三太)が祈りを捧げていた。日本は内戦を経て、明治という新しい時代を迎え、近代化へ向け走り出したと知った襄。目的のためとはいえ内戦で多くの民の命が奪われ、憎しみは憎しみの連鎖を生まないかと心を痛める。
その頃、日本では、八重(綾瀬はるか)たちは米沢藩の知人の家の離れに身を寄せながら、食いぶちを稼ぐため反物の行商をしていた。捕らえられた尚之助(長谷川博己)からの便りはなく、八重は不安を募らせる。
ある日、八重は行商で反物を買ってくれた千代という会津女性に会いに、田村屋という商家を訪ねる。千代は、会津戦争で勇敢に戦った八重を讃え、自分も鉄砲を習いたいと言う。というのも戦で夫の命を奪った薩長への恨みを晴らすため、息子を強く育て、本懐を遂げるのだと話す千代に、世話人の田村は賊軍の負け犬に何が出来るとあざけり、会津を侮辱した。八重は頭に血がのぼり、手元にあった棍棒を薙刀がわりに田村をやりこめ、振り下ろそうとした瞬間、千代が割って入り、息子を育て上げねばならないからと詫びる。千代は生きるために田村の妾となっていたのだ。生きていれば、いつか会津に帰れる・・・生き延びるのも戦いなのだと、八重は厳しい現実を受け止めつつ千代を励ますのだった。
その後 会津藩は家老・萱野権兵衛(柳沢慎吾)の斬首という犠牲によってお家断絶を免れ、陸奥・下北半島の三万石の地に移されることが決まった。会津28万石に比べるべくもない痩せた土地で、これから二万もの人々が生きて行かねばならない。筆頭の大参事となった大蔵(玉山鉄二)は、動揺する藩士達に、「新しい藩名は斗南とする」と発表、北斗七星より南は全て帝の民であり、朝敵の汚名を晴らすまで、斗(たたかう)、という意味がこめられたことを力説し、いつの日か会津の土地を取り返そうと、藩士達は意気盛んにわきたつ。
一方、箱館の五稜郭で戦いを続けていた旧幕府軍は、萱野の処刑が執行されたのと同じ日に降伏。「鳥羽・伏見の戦い」から始まった戊辰戦争がついに終結した。新選組の土方ら多くの武士が最後の戦いに命を散らしたが、会津を追われてきた頼母はつらくとも生き抜き、会津を踏みにじった者達がどんな世を作るのか見届けることを亡き妻に誓う。
落城から丁度一年、無事に生き延びた祝いに、八重たちは郷土料理の祝い膳こづゆを作る。そんな折、斗南藩の下見へ向かう途中の大蔵が八重達を訪ねてくる。懐かしいこづゆに舌鼓を打ちながら、涙を流し会津の再興と、一年頑張って生きたことを祝い合う大蔵と八重家族。去り際に大蔵は、尚之助の伝言を伝える。「己の勝手な思いで八重さんから誇りを奪ってしまった。それを返すために斗南に八重さんが生きる会津をもう一度作りたい」その思いを胸に、斗南に行くのだ、と。 大蔵も、八重に斗南に来て 皆を支えて欲しいと言う。全ては薩摩や長州への報復のためだ。だが、八重は返事を躊躇する。薩長への恨みに押しつぶされ、田村にしたように我を忘れてしまいそうになる自分が怖いのだ。こづゆを食べておいしいと思った、ささやかなしあわせを守って暮らしたい。そして、尚之助に「待っています」と返事をことづける八重を、名残惜しげに何度も見つめ去っていく大蔵であった。
明けて明治三年三月、下北半島の海沿いを会津藩士達が斗南目指して歩いていった。
・・・ということで、次回は第31話「離縁のわけ」です。
※斗南藩とは・・・開城から約9ケ月、東京で謹慎していた容保に実子・容大(かたはる)が誕生。その5か月後、領地没収となっていた会津藩に容保を中心とした家名存続が許される。青森県東部に立藩した斗南藩は、漢詩の「北斗以南皆帝州」;北斗七星より南は全て天皇の領地、から採った藩名。それに伴い各地で謹慎していた会津藩士達も放免され、新天地に続々と移住していったが、苦しい生活を余儀なくされるのは目に見えており、会津に残るものも数多くいた。
第30話名シーン
どうだべ?奥方様に・・・

奥方?おまえさん、お武家の出か? さては会津のもんだべ
<藩主容保を生かすため戦争責任を一身に負い、斬首が決まった萱野権兵衛>
では、さらばだ・・・只一つ無念なのは、逆賊の汚名を晴らすのを見届けずに死ぬことだ

戦で奪われたものを戦で晴らすのは武士のならい・・・頼むぞ! 大蔵「ははーっ」
<戊辰戦争最後の地、函館五稜郭では>
わしは生きる・・生きるぞ千恵!

会津を踏みにじった奴らがどんな世をつくるのか、自分の目で確かめるまで!
<おちぶれ者、逆賊とののしられ・・・>
許さねえ・・会津を愚弄するものは許せねぇ! 田村「ひいいぃぃ~っ」

千代「八重さん、やめてくなんしょ!この人が死んだら、息子がいきていけない」
今は生き抜くことが戦だ、生きていればいつかきっと会津に帰れる

それを支えに生きていくべ
お家再興が決まった!新しい藩名を斗南とする。

ええっ・・・!?騒ぐ会津藩士達
<将来有望な健次郎を、謹慎所から逃がし未来を託す義兄・梶原>
梶原「にしはこの両肩に死んだ者たちの思いを背負うのだ!生き抜かねばなんねぇのだ」

しかし私一人が、長州の手を借りて謹慎所を抜け出しては、死んでった仲間達に申し訳がたちません!
母「生きなはんしょ!健次郎!みなさんのためにも、生きなはんしょ!」

兵衛「これを持って行け!我が家に代々伝わる大和太刀だ」健次郎「おじじさま!!」
はるばる訪ねてきた大蔵に喜ぶ山本家

そして、一年を生き延びた祝いに・・・
晴れの料理、こづゆ

ではいただきやんしょ

こづゆってこんなにうまかったんだべか(涙)

八重さん、斗南に来ねえか?新しい国を創るために八重さんの力を借りてぇ

わだすは怖えのです・・・恨みを支えにしていては後ろを見るばかりで 前には進めねぇのだし
八重「もうしばらくこうして生きていっては いけねぇべか?勝手な事言ってすまねえだなし・・」

いいや、俺のほうこそ・・・八重さん・・・

まだ、どこか八重に未練タラタラな大蔵
尚之助様に伝えてくなんしょ、「待っています」と

(ダメ押しの一言)はい・・・・
<一方、京の覚馬は>
「不自由な体で世話をかける・・よろしく頼む」時栄「へえ」

そして、新天地斗南を目指す会津藩士たちは下北に

雪吹きすさぶ下北の三月、藩士たちは極寒の地へ
八重の桜、こんなところが好き!感想&雑記
今日は、前半の最終回でしたね。
戊辰戦争が終結し、岩倉のいう堂々たる新しい国 ――「名実ともに明治の世」になっていく。
今回が封建社会の価値観の終わりといえましょう。
日本の第二次世界大戦後の価値観の転換のように、 めまぐるしく変わったであろうと推測できます。
しかしながら、会津戦争の籠城戦は八重に相当なトラウマを残したのですね。
「大丈夫だ、!もう弾は飛んでこねえ」と、阿鼻叫喚の地獄絵巻がフラッシュバックする八重。
皆が皆それぞれに、体と心に傷を残しながら、新天地で生きるという戦いを続けていかねばなりません。
再興とは名ばかりで、会津の地で それは許されず、陸の果て「斗南」へと行くことに。
斗南藩は表高3万石でしたが、実高は7000石という不毛の地。会津の藩士は相当つらかったでしょう。
会津戦争が終わってからも どれだけの辛酸を舐め、「生き抜く」という悲惨な戦争を余儀なくされたのかと思うと、震災後のふくしまの姿とも重なって、胸に痛みを覚えます。
「生き抜くのも戦」・・・食っていくのも戦ですが、一番の戦いは過去の自分の価値観を捨てねばならない、という戦でしょう。会津が滅びた以上、もう過去には戻れないのだという自覚をもって、いかに新時代に適合しえるか。
それこそが、生きのびる力です。
それに逆行するような、会津出身の千代という女性と八重のやりとりは胸が苦しくなるものがありました。
けれど、それも無理からぬこと。
まだまだ、藩への意識というのは大きく、個人のアイデンティティーは殆ど藩のアイデンティティーにイコールだった時代です。会津の再興で泣いて喜ぶ八重のおっかさまのリアクションを見ればわかります。
そんな中、もっとも心を打たれたのは、みねちゃんの心意気でした。ついこの間まで、うらに叱られて泣いていた幼いみねが、いつの間にか立派な会津武士のたしなみを身に着けていたこと。
どんなに貧しくても見知らぬ者に野菜のほどこしを受けるのを潔しとせず、会津を侮辱した商人に即座に「無礼者!」と怒鳴りかかったみねの紅潮した頬に、もう立派に会津の魂が育っているのを見ました。
「どんなことがあっても、会津武士のおなごとして見苦しい真似をしてはならぬ」
みねは、権八おとっぁまが出陣式で山本家の家族に言い残した言葉をしっかりと胸に刻んでいたのだ・・・
そんな会津魂の灯をたやさず生きる4人の女性と、こづゆを味わって涙する大蔵が座す小さな板の間の空間・・・そこはさながら、会津。
国とは、そこに住まう人そのもののことを指すのではないか・・・
会津人でないから それを感じることができる尚之助の言葉が、深く思い出されます。
こづゆのゆげの向こうに家族のほほえみ。こづゆが運んだささやかなしあわせのなかに、にくしみとは無縁の、大切な何かを思い出した八重。
戦う、という深い含蓄をこめ名付けられた斗南・・・優しい大蔵や、尚之助もいて、八重を慕ってくれる仲間たちもいる。けれど、そこに行けば、会津を愚弄したあの商人を殺しかけたように、怒りがむくむく湧き出して、また戦士になってしまうかもしれない。憎しみと復讐の権化となり、殺伐とした空気のなかで生きる自分を、ひょっとしたら、皆と少し離れたところにいたからこそ、八重は見とおせたのかもしれない。だから八重は、斗南への移住をいさぎよしとしなかったのかもしれません。
そして、こづゆのシーンはまた、震災後の炊き出しのシーンと重なるものがありました。
斗南への移住も、まさに、福島の原発事故の現状が、ドラマの中の会津藩ですね。
原発近くの町は、いつ帰れるかわからない。
自分の居場所を見失うような虚無感に包まれているのではないでしょうか。
復興支援のドラマだからこそ、これからも丁寧に描いていって欲しいですね。
来週はほんまもんの明治時代。舞台は京都へ移ります。
斗南に行く者、会津に残る者、京都などの新天地に活路を見出す者。いろいろな人生がそこにあります。
どんな形であっても、八重たち会津の人々の「こころの再興」への道を応援していきたいと思います。
キャスティング❤今日のフィーチャー&インタビュー
出石を旅したとき、観光案内所でいただいたパンフレットNHKステラ(特別編集版)で、出石特集と、尚之助演じる長谷川博己さんの特集記事発見♫もうご覧になった方も多いかもしれませんが、記録として、拙ブログにも留めておきたいと思います。
ちょっと破れ鍋に綴蓋ちっくで、八重と同じく鉄砲ヲタクな相方、尚之助。噛めば噛むほど味わい深い、スルメ度100%のキャラであることは間違いありません。
そんな尚之助を、ハセヒロさんは「つかみどころのない男」と称しています。
尚之助は但馬・出石藩の出身ですが、江戸の佐久間象山塾で出会った覚馬に惚れ込んで会津にやってきます。そういう意味では、物語の中でも珍しい、中立的な立場の人物なんですよね。会津にいながらも、根っこからの会津人ではないので、常にどっちつかずのポジションにいる(笑)。その立ち位置は、彼の性格にも表れている気がします。
というのも、尚之助ってつかみどころのない男だと思うんです。何を考えているのか、なかなか分からないと言いますか・・・・。
撮影が始まって約半年がたちますが(取材当時)、僕自身、まだまだ尚之助をつかみきれていないんです。(笑)

尚之助と八重ならではの夫婦関係については?
尚之助は覚馬の妹、八重と結婚しますが、八重にひかれたのは、彼女が覚馬と共通するものを持っていたからだと思うんです。周りに反対されても鉄砲への思いを曲げることなく突き進む八重の姿は、女性版覚馬と言っても過言ではないですから(笑)、おそらく、尚之助は前から八重に人としての魅力を感じていて、年月を重ねる中で、その感情が愛情へと変化していったのでしょう。結婚した後も、尚之助は八重に対して敬語を使い、八重は”だんな様”ではなく”尚之助様”と呼ぶのですが、そんな様子からも、男女という枠にとらわれず、お互いに人として尊敬し合っていることが分かります。あの時代では珍しい夫婦像ですよね。尚之助と八重ならではの形だと思います。
プロポーズも、2人ならではお少し変わったものでした(笑)。皆さん覚えているでしょうか?尚之助が「夫婦になりましょう」と言ったら、八重に「だめです」と返され、「なぜです」と食い下がるシーンを(第13回)。お互いに意志が強く、相手のことを大切に思っているからこそ、なかなかスムーズに事が運ばないんですよね。でも、断られても自分の思いをしっかりと伝える尚之助には、これまでにはない男らしさを感じました。

これは僕の勝手な想像ですが、尚之助の中では、八重への思いが強くなる一方で覚馬に対するコンプレックスも増していたように思うんです。八重が覚馬を心から尊敬しているがゆえに、「自分は覚馬のようにはなれない」と弱気になっていたと言いますか・・・・・。でも、プロポーズのときはそういった感情がすべて吹っ切れたんですよね。演じながら「尚之助、成長したなぁ」という思いがこみ上げてきて、感慨深かったです。尚之助の変化が感じられる印象深いシーンとなりました。
まだ結婚したばかりの2人ですが、やがて離婚という結末を迎えます。その理由ははっきりとは分かってはいないので、僕自身どう描かれるのかとても気になっています。自分の中では、何となく「こういう理由だったのでは?」と想像しているのですが・・・・・。ここでお話しして違っていたら恥ずかしいので、発言は控えておきます(笑)。どんな展開になるのか、楽しみにしていてください。
NHKウィークリーステラ/インタビューより

尚之助の生まれ故郷、出石(いずし)をたずねて

尚之助の面影を追って、出石、但馬の町々を訪ねました❤
知れば知るほどに魅力的な人物、八重の夫であった川崎尚之助。
”夫であった”と過去形で話すのも寂しい限りですが、哀しい別れがあるのは覚悟していたこと。
『川崎尚之助と八重』
ある一冊の本との出会いが、どうしても出石を訪ねてみたい!という衝動に自分をかきたてました。

尚之助の育った出石という土地。
身分にかかわらず学問を学べて、町民の多くは知的水準が高く、農村出身者であっても出石で学問を修めたものが多いという、このような土壌が、尚之助のような優秀な人物を育んだことが、如実に伝わってきます。
そのお国柄については、実に情け深いもので、出石藩は幕府に忠誠を誓いながらも尊王に篤く、幕府に追われた桂小五郎を領民が匿ったことも知り 驚きました。のちに会津藩を救うために自らを犠牲にした尚之助の義と縁を重んじる一途な人物像は、この出石の気風から培われたのですね。
ふり返れば、尚之助は「広い視野で100年後を見据えた日本国のために」覚馬と夢を実現すべく会津に来たはずが、会津をめぐる戦に巻き込まれ、結果、「会津のため」に働くことになった人。また、八重のように純粋に容保を慕い従うというよりも、大局から俯瞰するように冷静な部分を持ち合わせていたのに、頑固な会津藩士の中でさぞ もどかしいものがあったろうと推察します。それでも、但馬人らしい勤勉さ、誠実さ、控えめな勇気など、八重や山本家にとって、また会津藩にとっても、どれほど頼もしい存在であったか・・・
『八重の桜』の影響はいわずもがな、ですが 今まで無名にも等しかった川崎尚之助という男性を見事に蘇らせ、「逃げた男」から「一途な男」へと真実の姿を浮き彫りにした、歴史家あさくらゆうさんの功績は、大変大きいと思います。本を読み終えたとき、尚之助の面影を追って出石という土地をぜひ訪ねてみたくなりました。
その願いが、今回、叶ったのでした。
車窓から見る出石の風景は、どこか会津に似ています。猪苗代の風景みたい

案内パンフレット(ステラ)は但馬の各観光案内所でもらえます♪
登城橋から門と出石城をのぞむ

城橋を渡り、城跡を散策していると鮮やかな朱塗りの稲荷神社が目に入ります。そこから下を見渡せばまるで江戸時代の城下町そのままの風景が広がっています。古くは仙石氏の時代から、初午の祭の三日間は城門を開き、町人でも稲荷神社への参詣が許されたことから、出石藩の庶民を大切にするお国柄が偲ばれる。
今度は逆に、三の丸(城側)から城下をのぞむ

腹がへっては戦ができぬ、で腹ごしらえ。名物、出石そば

すごいコシ。お蕎麦の”濃さ”実感!小皿五枚が基本。
出石には、こんなツウな食べ方があるらしい。

隣のテーブルの人も、寛永通宝を払っててビックリ。
出石のシンボル、辰鼓楼
登城時刻を伝えた時計台、辰鼓楼 (昔は太鼓で時を知らせたそう)

出石にいるんだけど来る?とメルしたら、次の日即行で飛んできた八重トモ♪
<尚之助が眠る、川崎家の墓のあった願成寺>

願成寺は、川崎家の菩提寺。川崎家の記録は享保年間(1720年頃)より存在する。尚之助もここで弔われたとされる。由緒ある山門は、江戸時代当初のもので、豊岡市指定文化財。山門前の眼力ある三体のダルマ大師が目印。現在は脇の門には八重の桜ポスターが貼られていました。
お寺の社務所から道路を挟んですぐ、尚之助の供養碑が。お香がたえません

暑かったので、オアシス付の籠で尚サマにお花を

尚之助のふるさと、出石の地に、顕彰と供養につながる石碑を建てようと。2013年1月、川崎家の菩提寺・願成寺の山門向かい斜面に建立された、川崎尚之助供養の碑。ご住職様によれば、尚さまの遺骨は、昔の墓から(写真の)左の仏像の下に移され、納められているそうです。最近は、ドラマの影響もあり、尚之助が好きでハセヒロさんが好きにになったファン、その逆にハセヒロファン転じて尚さまファンになった参拝客も多く訪れるという。
ご住職様が見せてくださった、尚之助のもとの墓があった頃の墓所

ご住職様から、尚之助にまつわる貴重なお話を聞くことができました
庭に見える滝は、かの沢庵(たくあん)和尚の作と伝わる

下<宗鏡(すきょう)寺。>
上の川崎家の墓のあった願成寺のすぐ隣、というか奥にある宗鏡寺。
出石藩主代々の菩提寺であり、元和2年(1616)に沢庵和尚が再興したことから沢庵寺とも呼ばれる。敷地には、山名、小出、仙石家、そして沢庵(たくあん)和尚の墓碑がある。
特記すべきは、江戸時代、川崎尚之助の祖父が献じた、一対の花灯篭が残されていること。
歴代藩主はじめ沢庵和尚の墓所もある格式高い寺。一番高い場所にある

着いたその日、疲れと暑さでボーっとなり、ホテルに帰るためタクシーの番号を聞いたかたが、偶然ご住職のお父様でした。素朴でご親切な方で、送って下さいました。私に気を使わせないようにか「丁度お孫さんの迎えがあるから」と・・・(涙)。一日がかりで出石にたどり着いたこの日は、感動と疲れで本当にボロボロで、ご好意に甘えてしまいました。あこがれの灯篭は、また明日に・・・
ということで、あくる日、花灯篭とご対面
尚之助のお祖父様が奉納された、対をなす花灯篭 信仰深い方だったのですね

御本尊は、室町時代の作。ご住職様(のお父様)、ありがとうございましたm(__)m
<尚之助の生家跡>
尚之助の生家跡 いまは化粧品屋さん。

かわいらしいおばあちゃんがお店をきりもりなさってます
八重さんとの祝言に、尚サマが八重の唇にさした紅を思い出し、口紅(マキアージュ)を買ったのですた

尚サマの声「いく、久しく・・・」(ぽ)
<旅のプラン、組合せ、何でも相談。豊岡駅の観光案内所のデキるスタッフさん>
但馬美人。豊岡駅観光案内所の、但馬のことならなんでも知ってるお姉さん。とっても親切♫

お陰様ですべてが素晴らしい旅でしたm(__)m あ、お姉さんでなくヤンママでした

<お姉さんおすすめ❤ちょっと足を延ばして隣町の城崎(きのさき)温泉へ>
明治・大正ロマン香る城崎温泉 どのお宿に泊まっても湯めぐりパスポートをもらえます

パスポートがあると有名な湯どころを十何箇所と無料で入浴できる、素敵な特典が。いい湯でした
出石(豊岡地域)のゆるキャラ玄さん。玄武岩をイメージしたすごいキャラ(マニャックだなし



ご当地サイダー。玄さんらしい、キレのある、シャープなお味でした(笑)
<さらに隣駅の竹野海岸に>
日本”快水”浴場100選にえらばれただけあって、透きとおった綺麗な海水とやわらかな白砂

ハイ、しっかり泳ぎますた^^ (トラフグ君や鯛、キスに会いました!)
但馬信用金庫の道路前、柳の幹の上に建てられた灯篭。歴史を感じますね

但馬では、さりげなくこういうものに遭遇します。古き佳きものを大切にするお土地柄なのですね
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
尚之助に関するレビューはこちらを参照
31話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1060.html
33話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1069.html
最終日も尚之助さんにお別れの挨拶に(お花が既にドライフラワーに!


祝言の日の尚サマ逆お姫様だっこを思い出し・・・(米俵だっこ?)
★このランキングに参加しています★ポチポチっとしてくなんしょ♪(>ω<)★(←会津語)




(>ω<)4ポチに感謝デス♪
美雨のおすすめブログ
海外旅行は体験談を参考に!

竜宮小僧の旅案内

スポンサーリンク
- at 23:30
- [NHK大河ドラマ 八重の桜]
- TB(0) |
- CO(20)
- [Edit]
歩子さま
覚馬の後のうらさんのアップは、どこか意味深でしたよね。
うらさんが痛すぎて、切ない・・・オープニングクレジットで既に山本時栄になってるし(@_@;)まだ離縁状を送ったわけでもないのに、なぜ既に山本時栄なの?と、いい気持ちはしませんね。
また、最後の椿のシーンは一見しっとりと印象的ですが、目の代わりに嗅覚発達しても椿の花はそこまで薫んねぇべあんつぁま~!?と演出にツッコミ入れてしまいました。作法にうるさい武家では「首から落ちる」椿は嫌われ、それを知らずにいけている時栄らしさは、良い演出だったのかも。(笑)
そして、(見えなくても)「花を愛でることは出来る・・・」の意味もなんとなく意味深でした。
次回は、来週は嬉しい知らせと悲しい知らせと山本家は大変そう。川崎夫婦、山本夫婦ともに、男と女の業が浮き出てくるような・・・出来れば、八重も、見ている側も納得のいくような描きかたをしてほしいですね(>_<)
そうですね、面白い心理パターンですが、誰かが批判すると自分も(安心して)ムラムラっと批判したくなり、違う誰かが称賛すると今度はべた褒めする人っていますよね、揺れてばっかりの。その典型みたいな・・・意志も感性も実はまるでなかったのかな?みたいな。(笑)何か引用してはの責任転嫁癖も見ていて慢性化してるし、もう人生の一部になってしまってるのかもですね、若ければ治せるのでしょうけど・・・悲しいですね。