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2013.12/01 [Sun]
八重の桜 第48回「グッバイ、また会わん」あらすじ&感想 ~さよなら 襄~
[八重の桜] ブログ村キーワード

NHK大河ドラマ 八重の桜 第48回「グッバイ、また会わん」
最新の回のあらすじ&感想はこちらをクリック↓(「八重の桜」各話あらすじ&感想)
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
八重の桜第48話の視聴率は13.7%。死を目前にしてもなお、同志社大学設立のために活動を続ける襄。しかし、刻一刻と迫る最後のとき。「まだ別れたくない」――ポロポロと涙を流す八重に、襄が掛けた言葉とは? 復興にむけて頑張る福島と東北に熱くエールを放つ大河ドラマ”八重の桜”、共に見守りつつ、虹の桜前線を拡げていきたいですね!
NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/

八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
八重の桜第48話あらすじ
襄(オダギリジョー)が関東で同志社の募金活動をしていた丁度その頃、東京では大隈重信が爆弾による襲撃を受け、右足切断という大怪我を負った。犯人の暴挙に、襄は憤る。「理性を取り戻させるのは、教育の使命です。大学設立、急がなければ・・・」 襄は疲れた体に鞭打って、次の目的地、群馬県の前橋に向かった。八重のもとに襄からの無事を知らせる走り書きの葉書が届く。もっと詳しい様子を知りたい八重は、同志社英学校にいる覚馬(西島秀俊)のもとに走る。覚馬と市原には、蘇峰(中村蒼)からのハガキで襄の体調不良が報告されていた。しかし、襄自身に固く口止めされていたため、八重に病状が知らされることはなかった。 体調が悪化した襄は急きょ療養の為に前橋から神奈川の大磯に移ることに。伏せていなければならない体でありながら、援助を願う何通もの手紙を書き続け、東京で元気に活動をしていると八重に思わせたいため、八重への「当方無事」の便りまで、見舞いに来た蘇峰に東京からの投函を頼むありさまだ。
この年の暮れ、山川家に、浩の姉・二葉の前夫で会津藩家老だった梶原平馬の訃報が届く。
戊辰戦争終結後、身のふり方も決めずに北海道に渡った平馬は、最期まで会津敗戦の責任を深く胸に刻みつけたままだったという。根室の子供達に書や絵を教えながら、晩年はなぜか京人形の絵ばかり描いていた、と。その絵を見た二葉は、子供が授かって幸せだったころ平馬が妻に贈ったあの這子人形だと気づき、泣き崩れるのだった。
一方、京都では、八重が襄からの「当方無事」の文字で、夫の体調に異変があったことを察知する。すでに襄の病状を知っていた覚馬から事情を聞き、予感が真実だったことを知った八重は急ぎ大磯へ向かう。
襄のいる奥の部屋を開けた八重は、やつれ果てた襄の姿に息をのむ。「八重さん・・・?夢か・・・」襄がうっすら目をあけ「あなたに会えるのがこんなに待ち遠しかったことはない・・・会いたかった、八重さん」と手を伸ばす。「何も心配いらない、私がそばにいるから」と、八重はその弱弱しい手を握り返す。襄は、持病の心臓疾患に加え腹膜炎をおこしていた。衰弱が進んだ襄のたっての希望で、小崎が聖書を手に最後の祈祷を捧げた。心残りは、八重を残して先に逝くことだけだという襄に、八重は涙を溢れさせながら自分を妻にしてくれたことに礼を言う。「戦の傷も、犯した罪も、悲しみも、みんな一緒に背負ってくれた。私を愛で満たしてくれた。ありがとなし」「グッバイ・・・また、会いましょう」
襄は微笑み、1890(明治23)年1月23日、八重の胸の中で永遠の眠りについた。
梅の花が春を告げても、八重は抜け殻のような日々を送っていた。
そんなある日、同志社臨時総長の座に就いた覚馬がきて、日本赤十字社が、篤志看護婦婦人会を作ることになり、東京では、捨松が中心になって動いているから、その精神と最新の看護法を学んで来い、という。
襄が寂しがるから京をはなれたくないという八重に、覚馬は、新島襄の妻はこんな意気地のない女だったのか!と一喝し、赤十字の看護の真髄は敵味方の区別なく、傷ついた者に手を差し伸べ、慈しみの光で世を照らす、それこそ新島さんが作ろうとした世界だ、と諭す。八重の目に力が戻る。
早速、大山邸の捨松を訪ねた八重は、赤十字社の西洋人医師の指導で看護実習をはじめる。会津の籠城戦で多くの負傷兵を手当てした経験がある八重は、包帯を巻く実習で手際の良さを見せ、皆を感心させる。八重はまた、捨松が米国留学中、薩長の金で学ぶことに戸惑いがあった自分の背中を押してくれたのが他ならぬ新島先生だったと聞かされる。
八重は捨松の手を取って約束する。「あの人は、ここにも、種をまいていた・・・私もやります、篤志者看護婦会。種をまきたいから・・・」明日のために、誰かのために・・・。
・・・ということで、次回は第49話「再び戦を学ばず」です。
八重が襄を偲んで詠んだ和歌・・・大磯の岩にくだけるなみの音の まくらにひびく夜半そかなしき
八重の桜第48話ぷち・ギャラリー
<訪ねてきた秋月悌次郎 還暦を過ぎてもまだまだ現役の理由>
わしが熊本行を決めたのは、新聞で「同志社大学設立の旨意」を読んだからだ。

「あれで気持ちが奮い立った」八重「ジョーの言葉がお役に立ったのですね」「じ、ジョー!?」
<襄、大磯の療養所へ>
先生、大磯にいるこつは八重さんに伝えましょう。

できません。療養していると知ったら飛んできてしまう・・このあり様を見たらきっと苦しむ
<山川家に知らされた、梶原平馬の訃報>
何枚もこの絵を描いていました。

もしや坊ちゃんのゆかりの物ではと・・
だんな様・・・・

<真実を知る八重>
新島さんは大磯にいる。体調をくずして療養している。

なじょして・・なじょしてそれを わだすに黙って・・・

大磯のどこに?襄をひとりにはしておけねぇ・・・私はそばにいて一緒に戦うんだと決めたんだし。
<やっと会えたふたり>
襄!なじょしたんです・・・こんなところで。

八重さん、夢かと思った・・・来てくれたんですね・・・会いたかった
日本の宝が消えようとしている。しらせねば・・・!

<襄・重体の電報に、同志社の教え子たちも祈りを>
祈りましょう。主が私たちの先生をお救いくださるよう・・・

宣教師たちの祈り

八重もまた

神様、二人を引き裂かねぇでくなんしょ。

<襄の遺言>
学生は型にはめず真の自由と国を愛する人物を育ててください。

多くの同志たちに助けられてきました。天を恨まず、人を咎めずただ感謝あるのみ。
気がかりなのは、八重さん、あなたのことだけです

あなたをおいて先に逝くことだけが・・・
心配いらねぇ、わだすは大丈夫・・・言ったはずですよ、わだすは守られて生きるような女子ではねぇ

だけんじょ、今はまだ別れたくねぇ。
<さいごの言葉>
襄、ありがとなし・・・わだすを妻にしてくれて。

戦の傷も犯した罪も悲しみも、みんな一緒に背負ってくれた・・・わだすを愛で包んでくれた
八重さん、泣かないで・・・私はあなたの笑顔が大好きです・・・狼狽しないで

グッバイ、また会いましょう。
襄~!!

う・・うう~っ うっううう・・・
<襄の死を悼む海舟>
彼らは世から取らんとす、我らは世に与えんと欲す

新島さん・・・、あんたはこの言葉通り日本にかけがえのないものをもたらしてくれた。

梅の花が春を告げるが、八重の心は・・・

<東京行を促す兄・覚馬>
日本赤十字社が篤志看護婦人会を作ることとなった。八重、最新の看護法を学んで来い

わだすは行かねぇ。京を離れたら、ジョーが寂しがる
<
杖バキィィーン>
新島襄の妻はこんな意気地のない女だったのがッ!? (こ、こわっ

赤十字の看護の神髄は敵味方の区別なく傷ついた者に手を差し伸べることにある・・・
苦しむ者、悲しむ者に寄り添い慈しみの光で世を照らす・・・新島さんが創ろうとした世界だ!
<東京 大山邸>
捨松「アメリカに留学した時、学問の面白さを知った私の背中を押して下さったのは新島先生でした」

あの人は ここにも種をまいていた・・・

私もやります・・・篤志看護婦人会!
襄がここに残したものを守っていかなくては。まだまだこれからだ・・・

笑顔が戻った八重
八重の桜第48話、こんなところが好き!感想
「泣かないで・・・グッバイ、また会いましょう」
逝ってしまいましたね、襄。
もう、涙ボロボロで、自分も八重と同じように胸にポッカリあいた空白をもてあましていました。
こんなに毎回涙が出るドラマって、いまだかつてあっただろうかと振り返っています。
死の床にあっても、最後までぶれずに、信念を貫き通した人。
周囲の人のことばかり心配していた襄・・・
エペソ人への手紙を読んでくれと頼んだ襄の顔は、弱弱しいのに、とても神々しくて、まるでルーベンスの描いたキリストの顔のように見えるので、不思議です。
彼は本来、どんな侍よりも政治家よりも強い気がします。
不思議と今回、これまでキリスト教義の詳しい描写は避けてきたきらいのある『八重の桜』で、プロテスタンティズム的な描写があったことも、新鮮な感動でした。
神から頂いたこの身体は伝導の為に・・・のようなエペソ人~の一節がすらすらと読み上げられ、今の襄の立場を表す一言一言が染み入る様に耳に入ってきます。
それは、感謝の気持ちを伝える八重の言葉にもみられました。
戦の傷も、犯した罪も、悲しみも、みんな一緒に背負ってくれた――という言葉を聞いたとき、何だか初めて(?)八重もプロテスタントだったんだ・・・ということを実感できました。
そして、それは教義を越えた、祈りの言葉だと思いました。
けれど、彼女も生身の人間。
最期の祈りを「待って!」と止めようとした八重の気持ち・・・よくわかります。
安らかに天に召されるようにと祈る言葉ではあるけれど、だが、今なのか?
八重は時間を止めたかったことでしょう。
自らのミッションと共に苦節20年、重い十字架をおろし、やっと二人になれたのに、まだ大学のことを心配しているなんて。
「学生は型に嵌めず、それぞれの特性を伸ばすこと
真の自由と国を愛する人物に育てて欲しい」
本当に、襄らしい遺言。
襄が作った漢詩「庭上一寒梅」という五言絶句 を想起させます。
「庭上の一寒梅」(寒梅の詩)
庭 上 一 寒 梅
笑 侵 風 雪 開
不 争 又 不 力
自 占 百 花 魁
現代語訳
庭先に咲いた一輪の早咲きの梅。
風や雪を笑顔で耐え忍び、
平然と咲いている。
別に他者と争うでもなく、
力むのでもなく、
ごく自然に、あらゆる花に先駆けて、
まっさきに咲くのだ。
今回、第48話でも、たびたび出てきた梅の花・・・
桜のような華やかさはないけれど、春をつげるためにさきがけて咲くことや
馥郁とした香りが、森羅万象をゆさぶり目覚めさせるような、そんな花ですね。
無言のはずの梅が、襄の愛を雄弁に語っていた、印象深いシーンでした。
また、詩の内容がどこか「過激な転校生」の結びで語られた「型どおりでなくてよい、歩みが遅いのもよし、気骨あるものもよし、だが、己のために他者を排除することなく・・・」という謙虚な心を大切にした、彼の台詞を思い出させます。
つい最近同志社出身の方が教えて下さったのですが、この詩はのち美しいメロディーがついて長く愛唱され、八重のスペシャル特番(スタジオパーク)でも使われた学生会館「寒梅館」は、この詩から命名されたそうです。
勝の言葉が頭をよぎります。
「彼等は世より取らんとす。我らは世に与えんと欲す」
この言葉の通り、日本にかけがえのないものをもたらした襄。
その人が亡くなった時、どれだけの人が悲しむかで価値がわかるといいますが、この4000人というのはすごいですね。
しかし、ゆっくり愛する人の死を悼んでもいられないなんて・・・まだひと季節も経っていないのに、矢継ぎ早に、覚馬もせっかちですね。
開口すれば「八重、これをやれ!」「行って来い!」が多い兄です。
まあ、これが覚馬流の励まし方かもしれないですね。今の時代では理不尽と言いたくなりますが・・・
人生の凝縮率がいまよりずっと濃い時代、生き急ぐ彼らの時計の針は、私達よりずっと早かったのかもしれない。
なんにせよ、「誰かが種をまかねば」「襄が創ろうとした世界」という言葉に、八重は自分の進むべき道を見いだしたようです。
こうしたところに、ハンサムウーマンとしての彼女の「本領」のようなものを感じますね。
48話はまた、会津の懐かしいお仲間の消息がわかり、嬉しい回でした。
故人を偲び、
「静かな口調の中に火の玉のような熱を放つ襄が
戦の折 城内を鼓舞して回った八重に、どこやら似ていた」と言う秋月さん、さすがご炯眼、加えて還暦を過ぎての新天地・・・たいしたものです。
思えば、八重はよく新天地に旅立つ秋月を見送りますね。
秋月が仲人をしてくれた尚之助と新婚の頃、左遷であった蝦夷地・斜里の代官に出向いたときの台詞
「新しい力は、君ら二人のように古い秩序に縛られぬものの中から生まれるとわしは信ずる」
いつも新天地で働くことに意欲をのぞかせる、前向きな人柄だからこそ、同僚教師のラフカディオハーン(小泉八雲)をして「神のごとき人」と形容されたのでしょう。あの日、空には見事な虹がかかっていました。
もう一方、会津の敗戦の責任から自分を責めて逃げた梶原の消息も。
まだ「義兄上」と呼び、死を悼む大蔵と健次郎。
二葉にしても、家族をかえりみることなく去ったと思っていた梶原が、二葉との思い出の御所人形の絵を、せっせと毎日描いていたなんて・・・彼女の固く凍りついた心も、溶けたことでしょう。
そして、人間のもつ善意も・・・。
次回もまた、懐かしい面々が出てくるようで、楽しみです。
八重の桜も、残すところあと二回ですね。
寂しくなりますが、磐梯山の新オープニングの通り、最後はやはり会津、復興がテーマですね。
しっかりと見届けたいです。
※ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)については
こちらを参照ください http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1148.html
「八重の桜」第48話
あ
ら
かると これからの八重
~日本のナイチンゲールとして~
「グッバイ、また会わん」
なんとかっこいい最期。(不謹慎かもですが・・・)死の床にあっても、襄は何も恐れていない。
恐れがあるとしたら、妻が泣いて悲しむことだけ。わずか14年の結婚生活でしたが、襄にとっての八重は悪妻どころか生涯最良の伴侶でしたね。
襄の死後、抜け殻のようだった八重が「襄が作ろうとした世界」という言葉ではっと目を醒まし、力を取り戻したシーンに目がしらを熱くした視聴者は、きっと少なくなかった筈。襄の志を時代に沿った新しい形で実現しようとした、八重が見出した新たな生きがいとは、何だったのでしょう。

新島襄の永眠後、八重は同志社とはやや距離を置きながら、自身の活動の場を見出していきます。
本格的な社会活動として1890(明治23)年には日本赤十字社正社員となり、社会奉仕事業に献身する道を歩み始めました。これは、看護婦の社会的な地位を高めるために皇族や華族など上流階級の婦人が、寄付をするだけでなく自ら看護婦として活動する慈善団体でした。
この時期の活動でよく知られているのは、日清戦争 日露戦争に篤志看護婦として従軍したことです。
日清戦争では広島に、日露では大阪に赴き傷病兵の看護にあたった八重の功績に対し、l896(明治29)年に勲七等宝冠章、10年後には勲六等宝冠章が授与されています。
かつて、会津籠城戦で戦場に身を置き、傷を負った藩士達を目のあたりにした八重だからこそ、自ら進んで従軍看護婦の任にあたることができたのでしょう。
八重の従軍記章 勲六等宝冠章

晋段の八重はどうだったかというと、茶道に一生懸命でした。
裏千家13代家元、圓能斎の弟子となり、女性として最高位まで上り詰め、自身も教師として弟子をとっています。
その後、昭和天皇の大礼に対し、八重は日本赤十字社での活動の功績により銀杯を下賜されました。
1931(昭和6)年には、故郷会津若松の大龍寺に山本家の墓を建てています。
1932(昭和7)年の6月14日、急性胆のう炎で八重は永眠しました。
享年86歳(数えで88歳)。江戸・明治・昭和と移り変わった激動の時代を、会津武士の魂とキリスト教精神で生き抜いた力強い生涯でした。
八重の葬儀は「同志社の母」として、その年完成したばがりの同志社栄光館で学校葬(同志社葬)として営まれ、4000人もの参列者がありました。埋葬されたのは京都市左京区若王子山の同志社墓地で、今も襄の左隣に眠っています。墓碑名は徳富蘇峰の揮毫によるものです。

「八重の桜」第48話 キャスティング❤今日のフィーチャー
48話はジョーが昇天した、特別の回。今日は思いっきり、オダギリジョーさん、綾瀬はるかさんに襄と八重を語っていただきまーす♪
教育への情熱を共有し、同志社の設立に奔走した八重と襄。校名のように、まさに「同志」として若者たちの未来を開いた夫婦を演じるおふたりのドラマにかける思いが語られています。

対談オダギリジョー&綾瀬はるか
綾瀬さん「襄の隣にいると、ポジティブになれる笑顔を見ているだけでハッピーになれる」
八重が尚之助のことを心から思っていたのに、なぜ新島襄との結婚を決めたのか想像できなかった、でもいざ襄と向き合ってみると、これまで生きてきた次元とはまったく違う次元に襄が連れて行ってくれて、ふと心が救われるような感じがしたと綾瀬さんは言ってます。
一方オダギリさんは、史料を読んで襄はもっと尖ったキャラクターをイメージしていたそうですが、八重を前にして、はからずも柔和な人物づくりに傾いていったそうです。同志社の運営に没頭しすぎて、日常は八重がいなとダメで、偉大さの陰に弱さもあり、それを母性的な懐の深さで八重が補う、襄が八重を優しく包み込んでいるように見えて、実は八重が襄を包み込んでいるというような感じで演じたいと・・
「襄は会津戦争のころは日本にいない。だから八重の悲しみを本当の意味で理解することはできない。でも一緒に悲しむより、隣で笑顔でいるほうが、八重の気落ちを前に向けれらるんじゃないかって。」
「襄の隣にいると、すごくポジティブな気持ちになります。豊かな表情を見ているだけで、ハッピーになれるんです。」
実際の襄と八重も、こんな感じだったのかもしれませんね。

オダギリさん「八重がいないダメな襄、そんな関係性が見えてくるといい」
オダギリさんは暗部を持った役を好んできたそうで、今回の役は新しい挑戦だそうです。
実際の八重と襄がどんな人物だったかわかりえないけど、硬派路線から温厚路線に襄のイメージを軌道修正したことで、綾瀬さん演じる八重、僕が演じる襄の相互作用があって、視聴者の心に届くこともあり、お互いこの相手以外にはありえない、ベストカップルに見えたらいいとオダギリさんは言ってます。
おふたりとも襄と八重の墓参りもしたそうです。スケジュールの都合で別々だったそうですが。
襄と八重の墓石が並んで立っていて、少し離れたところにに覚馬をはじめ山本家の人々の墓石があって、お墓からもアットホームな雰囲気が伝わってきたそうです。
美雨のぷち・八重の桜紀行その⑯
黒谷本陣&同志社墓地・新島襄、八重さんをたずねて
襄、八重のついのすみかとなった京の風景を訪ねてきました❤
駆け足でしたが、八重さんマップを片手に、以前から行きたかった黒谷(会津)本陣と会津墓所、同志社墓地に眠る新島襄&八重夫妻を訪ねて、「哲学の道」へ。
”黒谷さん”と呼ばれ親しまれている金戒光明寺

通称「黒谷さん」と呼ばれる寺院で、京都守護職に就任した松平容保がおよそ1000人の家臣を従えて入洛し、最初に本陣を構えた場所です。選定理由は、西は淀川あたりまで見渡せるという小高い丘の上にあって自然要塞の条件をそなえていることや、有事の際には軍隊が配置できるような城構えがされていたからだと言われています。
また、浪士組を離れて京都に残留した近藤勇がここで容保に謁見し、新選組が誕生しました。徳川との縁が深い寺で、会津藩殉難者墓地、二代将軍で会津藩祖の保科正之の父・秀忠やその正室・お江の供養塔があります。
会津藩殉難者墓地へ

二代将軍秀忠を追悼するために建てられた三重塔に向かう階段を途中で折れ、奥へ進んでいくと、会津藩殉難者墓地があります。ここには、幕末の禁門の変や鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士達が静かに眠っています。

光明寺から御所に向かう見晴 覚馬も眺めただろう美しい夕暮れ
会津慰霊碑 敬虔な気持ちになります

鶴ヶ城の写真や小法師、赤べこなどがいっぱい
八重の弟、山本三郎、の名も

水清き「哲学の道」の南端、同志社墓地への登り口にあたる、熊野若王子神社

同志社墓地
この墓地は、熊野若王子神社横の山道を20分のぼったところにあります。当初、襄の遺体は父と同じ南禅寺に埋葬する予定でしたが、キリスト教徒ということで難航し、京都市の共葬墓地に変更せざるを得ませんでした。その後、この場所は師を慕う同志社関係者が眠る「同志社墓地となっていきます。八重をはじめ、兄の覚馬、父・権八、母の佐久、襄の弟子の徳富蘇峰、デイヴィスなどの新島夫妻ゆかりの人たちが多く眠っています。
しかし・・・いったん山に入ると

このような山道をひたすら25分ほど登ります(舗装してないところも)キツかったっす(>_<)
ヤッター♪頂上らしきに到着

すると、こんな景観・・・いきなり正面に新島夫妻の墓が
会えました! お墓になっても綺麗な八重さんです

滂沱と涙が・・・ 八重さん、ご苦労さまでしたと、そればかりの美雨
襄の墓。勝海舟が書いたちょっと気になる墓碑銘・・・「島」の字に横棒がひとつ足りませんね^^;

ずぼらな性格の海舟の癖だったとも(笑)ルールに縛られない襄の生き方を表したとも言われている
右から 覚馬の墓、 (中央)山本権八、佐久、三郎の墓 、左 久栄の墓

綾瀬さんが言っていた通り・・・みんないっしょで寂しくないね
徳富蘇峰(猪一郎)の墓も・・・

位置的に新島襄先生を見守るように立っているところが涙
行き(のぼり)はとにかく必死で、見落としていた風景

眼下にこんな美しい滝が・・熊野若王子:にゃくおうじ 神社の滝
哲学の道 清水のせせらぎが聞こえる熊野若王子神社

同志社墓地は、さながらプチ登山でした。あんなに高いところにあるなんて・・・けれど本当に来てよかった、と思える、清々しい、霊感ただよう場所でした。一族、同僚、みな仲良く眠っているのですね。^^
新しいお花が供えてあるのを見て、ああ、新島夫妻はいまも多くの人に愛されているのだなぁ、と感動。
帰りに、熊野若王子神社で八咫烏みくじをひいたら、めずらしく大吉が出て、八重さんがおみやげを下さった気がしました。
八重さん、襄さん、ありがとう。やすらかに、お眠り下さい。
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
京都駅に帰る電車の中 こんなとこでも八重さんに会えました♪

皆さん、今日もありがとなし
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NHK大河ドラマ 八重の桜 第48回「グッバイ、また会わん」
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NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/

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八重の桜第48話あらすじ
襄(オダギリジョー)が関東で同志社の募金活動をしていた丁度その頃、東京では大隈重信が爆弾による襲撃を受け、右足切断という大怪我を負った。犯人の暴挙に、襄は憤る。「理性を取り戻させるのは、教育の使命です。大学設立、急がなければ・・・」 襄は疲れた体に鞭打って、次の目的地、群馬県の前橋に向かった。八重のもとに襄からの無事を知らせる走り書きの葉書が届く。もっと詳しい様子を知りたい八重は、同志社英学校にいる覚馬(西島秀俊)のもとに走る。覚馬と市原には、蘇峰(中村蒼)からのハガキで襄の体調不良が報告されていた。しかし、襄自身に固く口止めされていたため、八重に病状が知らされることはなかった。 体調が悪化した襄は急きょ療養の為に前橋から神奈川の大磯に移ることに。伏せていなければならない体でありながら、援助を願う何通もの手紙を書き続け、東京で元気に活動をしていると八重に思わせたいため、八重への「当方無事」の便りまで、見舞いに来た蘇峰に東京からの投函を頼むありさまだ。
この年の暮れ、山川家に、浩の姉・二葉の前夫で会津藩家老だった梶原平馬の訃報が届く。
戊辰戦争終結後、身のふり方も決めずに北海道に渡った平馬は、最期まで会津敗戦の責任を深く胸に刻みつけたままだったという。根室の子供達に書や絵を教えながら、晩年はなぜか京人形の絵ばかり描いていた、と。その絵を見た二葉は、子供が授かって幸せだったころ平馬が妻に贈ったあの這子人形だと気づき、泣き崩れるのだった。
一方、京都では、八重が襄からの「当方無事」の文字で、夫の体調に異変があったことを察知する。すでに襄の病状を知っていた覚馬から事情を聞き、予感が真実だったことを知った八重は急ぎ大磯へ向かう。
襄のいる奥の部屋を開けた八重は、やつれ果てた襄の姿に息をのむ。「八重さん・・・?夢か・・・」襄がうっすら目をあけ「あなたに会えるのがこんなに待ち遠しかったことはない・・・会いたかった、八重さん」と手を伸ばす。「何も心配いらない、私がそばにいるから」と、八重はその弱弱しい手を握り返す。襄は、持病の心臓疾患に加え腹膜炎をおこしていた。衰弱が進んだ襄のたっての希望で、小崎が聖書を手に最後の祈祷を捧げた。心残りは、八重を残して先に逝くことだけだという襄に、八重は涙を溢れさせながら自分を妻にしてくれたことに礼を言う。「戦の傷も、犯した罪も、悲しみも、みんな一緒に背負ってくれた。私を愛で満たしてくれた。ありがとなし」「グッバイ・・・また、会いましょう」
襄は微笑み、1890(明治23)年1月23日、八重の胸の中で永遠の眠りについた。
梅の花が春を告げても、八重は抜け殻のような日々を送っていた。
そんなある日、同志社臨時総長の座に就いた覚馬がきて、日本赤十字社が、篤志看護婦婦人会を作ることになり、東京では、捨松が中心になって動いているから、その精神と最新の看護法を学んで来い、という。
襄が寂しがるから京をはなれたくないという八重に、覚馬は、新島襄の妻はこんな意気地のない女だったのか!と一喝し、赤十字の看護の真髄は敵味方の区別なく、傷ついた者に手を差し伸べ、慈しみの光で世を照らす、それこそ新島さんが作ろうとした世界だ、と諭す。八重の目に力が戻る。
早速、大山邸の捨松を訪ねた八重は、赤十字社の西洋人医師の指導で看護実習をはじめる。会津の籠城戦で多くの負傷兵を手当てした経験がある八重は、包帯を巻く実習で手際の良さを見せ、皆を感心させる。八重はまた、捨松が米国留学中、薩長の金で学ぶことに戸惑いがあった自分の背中を押してくれたのが他ならぬ新島先生だったと聞かされる。
八重は捨松の手を取って約束する。「あの人は、ここにも、種をまいていた・・・私もやります、篤志者看護婦会。種をまきたいから・・・」明日のために、誰かのために・・・。
・・・ということで、次回は第49話「再び戦を学ばず」です。
八重が襄を偲んで詠んだ和歌・・・大磯の岩にくだけるなみの音の まくらにひびく夜半そかなしき
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<訪ねてきた秋月悌次郎 還暦を過ぎてもまだまだ現役の理由>
わしが熊本行を決めたのは、新聞で「同志社大学設立の旨意」を読んだからだ。

「あれで気持ちが奮い立った」八重「ジョーの言葉がお役に立ったのですね」「じ、ジョー!?」
<襄、大磯の療養所へ>
先生、大磯にいるこつは八重さんに伝えましょう。

できません。療養していると知ったら飛んできてしまう・・このあり様を見たらきっと苦しむ
<山川家に知らされた、梶原平馬の訃報>
何枚もこの絵を描いていました。

もしや坊ちゃんのゆかりの物ではと・・
だんな様・・・・

<真実を知る八重>
新島さんは大磯にいる。体調をくずして療養している。

なじょして・・なじょしてそれを わだすに黙って・・・

大磯のどこに?襄をひとりにはしておけねぇ・・・私はそばにいて一緒に戦うんだと決めたんだし。
<やっと会えたふたり>
襄!なじょしたんです・・・こんなところで。

八重さん、夢かと思った・・・来てくれたんですね・・・会いたかった
日本の宝が消えようとしている。しらせねば・・・!

<襄・重体の電報に、同志社の教え子たちも祈りを>
祈りましょう。主が私たちの先生をお救いくださるよう・・・

宣教師たちの祈り

八重もまた

神様、二人を引き裂かねぇでくなんしょ。

<襄の遺言>
学生は型にはめず真の自由と国を愛する人物を育ててください。

多くの同志たちに助けられてきました。天を恨まず、人を咎めずただ感謝あるのみ。
気がかりなのは、八重さん、あなたのことだけです

あなたをおいて先に逝くことだけが・・・
心配いらねぇ、わだすは大丈夫・・・言ったはずですよ、わだすは守られて生きるような女子ではねぇ

だけんじょ、今はまだ別れたくねぇ。
<さいごの言葉>
襄、ありがとなし・・・わだすを妻にしてくれて。

戦の傷も犯した罪も悲しみも、みんな一緒に背負ってくれた・・・わだすを愛で包んでくれた
八重さん、泣かないで・・・私はあなたの笑顔が大好きです・・・狼狽しないで

グッバイ、また会いましょう。
襄~!!

う・・うう~っ うっううう・・・
<襄の死を悼む海舟>
彼らは世から取らんとす、我らは世に与えんと欲す

新島さん・・・、あんたはこの言葉通り日本にかけがえのないものをもたらしてくれた。

梅の花が春を告げるが、八重の心は・・・

<東京行を促す兄・覚馬>
日本赤十字社が篤志看護婦人会を作ることとなった。八重、最新の看護法を学んで来い

わだすは行かねぇ。京を離れたら、ジョーが寂しがる
<

新島襄の妻はこんな意気地のない女だったのがッ!? (こ、こわっ


赤十字の看護の神髄は敵味方の区別なく傷ついた者に手を差し伸べることにある・・・
苦しむ者、悲しむ者に寄り添い慈しみの光で世を照らす・・・新島さんが創ろうとした世界だ!
<東京 大山邸>
捨松「アメリカに留学した時、学問の面白さを知った私の背中を押して下さったのは新島先生でした」

あの人は ここにも種をまいていた・・・

私もやります・・・篤志看護婦人会!
襄がここに残したものを守っていかなくては。まだまだこれからだ・・・

笑顔が戻った八重
八重の桜第48話、こんなところが好き!感想
「泣かないで・・・グッバイ、また会いましょう」
逝ってしまいましたね、襄。
もう、涙ボロボロで、自分も八重と同じように胸にポッカリあいた空白をもてあましていました。
こんなに毎回涙が出るドラマって、いまだかつてあっただろうかと振り返っています。
死の床にあっても、最後までぶれずに、信念を貫き通した人。
周囲の人のことばかり心配していた襄・・・
エペソ人への手紙を読んでくれと頼んだ襄の顔は、弱弱しいのに、とても神々しくて、まるでルーベンスの描いたキリストの顔のように見えるので、不思議です。
彼は本来、どんな侍よりも政治家よりも強い気がします。
不思議と今回、これまでキリスト教義の詳しい描写は避けてきたきらいのある『八重の桜』で、プロテスタンティズム的な描写があったことも、新鮮な感動でした。
神から頂いたこの身体は伝導の為に・・・のようなエペソ人~の一節がすらすらと読み上げられ、今の襄の立場を表す一言一言が染み入る様に耳に入ってきます。
それは、感謝の気持ちを伝える八重の言葉にもみられました。
戦の傷も、犯した罪も、悲しみも、みんな一緒に背負ってくれた――という言葉を聞いたとき、何だか初めて(?)八重もプロテスタントだったんだ・・・ということを実感できました。
そして、それは教義を越えた、祈りの言葉だと思いました。
けれど、彼女も生身の人間。
最期の祈りを「待って!」と止めようとした八重の気持ち・・・よくわかります。
安らかに天に召されるようにと祈る言葉ではあるけれど、だが、今なのか?
八重は時間を止めたかったことでしょう。
自らのミッションと共に苦節20年、重い十字架をおろし、やっと二人になれたのに、まだ大学のことを心配しているなんて。
「学生は型に嵌めず、それぞれの特性を伸ばすこと
真の自由と国を愛する人物に育てて欲しい」
本当に、襄らしい遺言。
襄が作った漢詩「庭上一寒梅」という五言絶句 を想起させます。
「庭上の一寒梅」(寒梅の詩)
庭 上 一 寒 梅
笑 侵 風 雪 開
不 争 又 不 力
自 占 百 花 魁
現代語訳
庭先に咲いた一輪の早咲きの梅。
風や雪を笑顔で耐え忍び、
平然と咲いている。
別に他者と争うでもなく、
力むのでもなく、
ごく自然に、あらゆる花に先駆けて、
まっさきに咲くのだ。
今回、第48話でも、たびたび出てきた梅の花・・・
桜のような華やかさはないけれど、春をつげるためにさきがけて咲くことや
馥郁とした香りが、森羅万象をゆさぶり目覚めさせるような、そんな花ですね。
無言のはずの梅が、襄の愛を雄弁に語っていた、印象深いシーンでした。
また、詩の内容がどこか「過激な転校生」の結びで語られた「型どおりでなくてよい、歩みが遅いのもよし、気骨あるものもよし、だが、己のために他者を排除することなく・・・」という謙虚な心を大切にした、彼の台詞を思い出させます。
つい最近同志社出身の方が教えて下さったのですが、この詩はのち美しいメロディーがついて長く愛唱され、八重のスペシャル特番(スタジオパーク)でも使われた学生会館「寒梅館」は、この詩から命名されたそうです。
勝の言葉が頭をよぎります。
「彼等は世より取らんとす。我らは世に与えんと欲す」
この言葉の通り、日本にかけがえのないものをもたらした襄。
その人が亡くなった時、どれだけの人が悲しむかで価値がわかるといいますが、この4000人というのはすごいですね。
しかし、ゆっくり愛する人の死を悼んでもいられないなんて・・・まだひと季節も経っていないのに、矢継ぎ早に、覚馬もせっかちですね。
開口すれば「八重、これをやれ!」「行って来い!」が多い兄です。
まあ、これが覚馬流の励まし方かもしれないですね。今の時代では理不尽と言いたくなりますが・・・
人生の凝縮率がいまよりずっと濃い時代、生き急ぐ彼らの時計の針は、私達よりずっと早かったのかもしれない。
なんにせよ、「誰かが種をまかねば」「襄が創ろうとした世界」という言葉に、八重は自分の進むべき道を見いだしたようです。
こうしたところに、ハンサムウーマンとしての彼女の「本領」のようなものを感じますね。
48話はまた、会津の懐かしいお仲間の消息がわかり、嬉しい回でした。
故人を偲び、
「静かな口調の中に火の玉のような熱を放つ襄が
戦の折 城内を鼓舞して回った八重に、どこやら似ていた」と言う秋月さん、さすがご炯眼、加えて還暦を過ぎての新天地・・・たいしたものです。
思えば、八重はよく新天地に旅立つ秋月を見送りますね。
秋月が仲人をしてくれた尚之助と新婚の頃、左遷であった蝦夷地・斜里の代官に出向いたときの台詞
「新しい力は、君ら二人のように古い秩序に縛られぬものの中から生まれるとわしは信ずる」
いつも新天地で働くことに意欲をのぞかせる、前向きな人柄だからこそ、同僚教師のラフカディオハーン(小泉八雲)をして「神のごとき人」と形容されたのでしょう。あの日、空には見事な虹がかかっていました。
もう一方、会津の敗戦の責任から自分を責めて逃げた梶原の消息も。
まだ「義兄上」と呼び、死を悼む大蔵と健次郎。
二葉にしても、家族をかえりみることなく去ったと思っていた梶原が、二葉との思い出の御所人形の絵を、せっせと毎日描いていたなんて・・・彼女の固く凍りついた心も、溶けたことでしょう。
そして、人間のもつ善意も・・・。
次回もまた、懐かしい面々が出てくるようで、楽しみです。
八重の桜も、残すところあと二回ですね。
寂しくなりますが、磐梯山の新オープニングの通り、最後はやはり会津、復興がテーマですね。
しっかりと見届けたいです。
※ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)については
こちらを参照ください http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1148.html
「八重の桜」第48話



~日本のナイチンゲールとして~
「グッバイ、また会わん」
なんとかっこいい最期。(不謹慎かもですが・・・)死の床にあっても、襄は何も恐れていない。
恐れがあるとしたら、妻が泣いて悲しむことだけ。わずか14年の結婚生活でしたが、襄にとっての八重は悪妻どころか生涯最良の伴侶でしたね。
襄の死後、抜け殻のようだった八重が「襄が作ろうとした世界」という言葉ではっと目を醒まし、力を取り戻したシーンに目がしらを熱くした視聴者は、きっと少なくなかった筈。襄の志を時代に沿った新しい形で実現しようとした、八重が見出した新たな生きがいとは、何だったのでしょう。

新島襄の永眠後、八重は同志社とはやや距離を置きながら、自身の活動の場を見出していきます。
本格的な社会活動として1890(明治23)年には日本赤十字社正社員となり、社会奉仕事業に献身する道を歩み始めました。これは、看護婦の社会的な地位を高めるために皇族や華族など上流階級の婦人が、寄付をするだけでなく自ら看護婦として活動する慈善団体でした。
この時期の活動でよく知られているのは、日清戦争 日露戦争に篤志看護婦として従軍したことです。
日清戦争では広島に、日露では大阪に赴き傷病兵の看護にあたった八重の功績に対し、l896(明治29)年に勲七等宝冠章、10年後には勲六等宝冠章が授与されています。
かつて、会津籠城戦で戦場に身を置き、傷を負った藩士達を目のあたりにした八重だからこそ、自ら進んで従軍看護婦の任にあたることができたのでしょう。
八重の従軍記章 勲六等宝冠章


晋段の八重はどうだったかというと、茶道に一生懸命でした。
裏千家13代家元、圓能斎の弟子となり、女性として最高位まで上り詰め、自身も教師として弟子をとっています。
その後、昭和天皇の大礼に対し、八重は日本赤十字社での活動の功績により銀杯を下賜されました。
1931(昭和6)年には、故郷会津若松の大龍寺に山本家の墓を建てています。
1932(昭和7)年の6月14日、急性胆のう炎で八重は永眠しました。
享年86歳(数えで88歳)。江戸・明治・昭和と移り変わった激動の時代を、会津武士の魂とキリスト教精神で生き抜いた力強い生涯でした。
八重の葬儀は「同志社の母」として、その年完成したばがりの同志社栄光館で学校葬(同志社葬)として営まれ、4000人もの参列者がありました。埋葬されたのは京都市左京区若王子山の同志社墓地で、今も襄の左隣に眠っています。墓碑名は徳富蘇峰の揮毫によるものです。

「八重の桜」第48話 キャスティング❤今日のフィーチャー
48話はジョーが昇天した、特別の回。今日は思いっきり、オダギリジョーさん、綾瀬はるかさんに襄と八重を語っていただきまーす♪
教育への情熱を共有し、同志社の設立に奔走した八重と襄。校名のように、まさに「同志」として若者たちの未来を開いた夫婦を演じるおふたりのドラマにかける思いが語られています。

対談オダギリジョー&綾瀬はるか
綾瀬さん「襄の隣にいると、ポジティブになれる笑顔を見ているだけでハッピーになれる」
八重が尚之助のことを心から思っていたのに、なぜ新島襄との結婚を決めたのか想像できなかった、でもいざ襄と向き合ってみると、これまで生きてきた次元とはまったく違う次元に襄が連れて行ってくれて、ふと心が救われるような感じがしたと綾瀬さんは言ってます。
一方オダギリさんは、史料を読んで襄はもっと尖ったキャラクターをイメージしていたそうですが、八重を前にして、はからずも柔和な人物づくりに傾いていったそうです。同志社の運営に没頭しすぎて、日常は八重がいなとダメで、偉大さの陰に弱さもあり、それを母性的な懐の深さで八重が補う、襄が八重を優しく包み込んでいるように見えて、実は八重が襄を包み込んでいるというような感じで演じたいと・・
「襄は会津戦争のころは日本にいない。だから八重の悲しみを本当の意味で理解することはできない。でも一緒に悲しむより、隣で笑顔でいるほうが、八重の気落ちを前に向けれらるんじゃないかって。」
「襄の隣にいると、すごくポジティブな気持ちになります。豊かな表情を見ているだけで、ハッピーになれるんです。」
実際の襄と八重も、こんな感じだったのかもしれませんね。

オダギリさん「八重がいないダメな襄、そんな関係性が見えてくるといい」
オダギリさんは暗部を持った役を好んできたそうで、今回の役は新しい挑戦だそうです。
実際の八重と襄がどんな人物だったかわかりえないけど、硬派路線から温厚路線に襄のイメージを軌道修正したことで、綾瀬さん演じる八重、僕が演じる襄の相互作用があって、視聴者の心に届くこともあり、お互いこの相手以外にはありえない、ベストカップルに見えたらいいとオダギリさんは言ってます。
おふたりとも襄と八重の墓参りもしたそうです。スケジュールの都合で別々だったそうですが。
襄と八重の墓石が並んで立っていて、少し離れたところにに覚馬をはじめ山本家の人々の墓石があって、お墓からもアットホームな雰囲気が伝わってきたそうです。

黒谷本陣&同志社墓地・新島襄、八重さんをたずねて

襄、八重のついのすみかとなった京の風景を訪ねてきました❤
駆け足でしたが、八重さんマップを片手に、以前から行きたかった黒谷(会津)本陣と会津墓所、同志社墓地に眠る新島襄&八重夫妻を訪ねて、「哲学の道」へ。
”黒谷さん”と呼ばれ親しまれている金戒光明寺

通称「黒谷さん」と呼ばれる寺院で、京都守護職に就任した松平容保がおよそ1000人の家臣を従えて入洛し、最初に本陣を構えた場所です。選定理由は、西は淀川あたりまで見渡せるという小高い丘の上にあって自然要塞の条件をそなえていることや、有事の際には軍隊が配置できるような城構えがされていたからだと言われています。
また、浪士組を離れて京都に残留した近藤勇がここで容保に謁見し、新選組が誕生しました。徳川との縁が深い寺で、会津藩殉難者墓地、二代将軍で会津藩祖の保科正之の父・秀忠やその正室・お江の供養塔があります。
会津藩殉難者墓地へ

二代将軍秀忠を追悼するために建てられた三重塔に向かう階段を途中で折れ、奥へ進んでいくと、会津藩殉難者墓地があります。ここには、幕末の禁門の変や鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士達が静かに眠っています。

光明寺から御所に向かう見晴 覚馬も眺めただろう美しい夕暮れ
会津慰霊碑 敬虔な気持ちになります

鶴ヶ城の写真や小法師、赤べこなどがいっぱい
八重の弟、山本三郎、の名も

水清き「哲学の道」の南端、同志社墓地への登り口にあたる、熊野若王子神社

同志社墓地
この墓地は、熊野若王子神社横の山道を20分のぼったところにあります。当初、襄の遺体は父と同じ南禅寺に埋葬する予定でしたが、キリスト教徒ということで難航し、京都市の共葬墓地に変更せざるを得ませんでした。その後、この場所は師を慕う同志社関係者が眠る「同志社墓地となっていきます。八重をはじめ、兄の覚馬、父・権八、母の佐久、襄の弟子の徳富蘇峰、デイヴィスなどの新島夫妻ゆかりの人たちが多く眠っています。
しかし・・・いったん山に入ると

このような山道をひたすら25分ほど登ります(舗装してないところも)キツかったっす(>_<)
ヤッター♪頂上らしきに到着

すると、こんな景観・・・いきなり正面に新島夫妻の墓が
会えました! お墓になっても綺麗な八重さんです

滂沱と涙が・・・ 八重さん、ご苦労さまでしたと、そればかりの美雨
襄の墓。勝海舟が書いたちょっと気になる墓碑銘・・・「島」の字に横棒がひとつ足りませんね^^;

ずぼらな性格の海舟の癖だったとも(笑)ルールに縛られない襄の生き方を表したとも言われている
右から 覚馬の墓、 (中央)山本権八、佐久、三郎の墓 、左 久栄の墓

綾瀬さんが言っていた通り・・・みんないっしょで寂しくないね
徳富蘇峰(猪一郎)の墓も・・・

位置的に新島襄先生を見守るように立っているところが涙
行き(のぼり)はとにかく必死で、見落としていた風景

眼下にこんな美しい滝が・・熊野若王子:にゃくおうじ 神社の滝
哲学の道 清水のせせらぎが聞こえる熊野若王子神社

同志社墓地は、さながらプチ登山でした。あんなに高いところにあるなんて・・・けれど本当に来てよかった、と思える、清々しい、霊感ただよう場所でした。一族、同僚、みな仲良く眠っているのですね。^^
新しいお花が供えてあるのを見て、ああ、新島夫妻はいまも多くの人に愛されているのだなぁ、と感動。
帰りに、熊野若王子神社で八咫烏みくじをひいたら、めずらしく大吉が出て、八重さんがおみやげを下さった気がしました。
八重さん、襄さん、ありがとう。やすらかに、お眠り下さい。
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
京都駅に帰る電車の中 こんなとこでも八重さんに会えました♪

皆さん、今日もありがとなし
★ポチポチっとしておくれやす♪(>ω<)★(←京都ことばになった八重さん)




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- [NHK大河ドラマ 八重の桜]
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- [八重の桜第48話レビュー]
- [八重の桜第48話感想]
鍵コメさま、ありがとうございます。
函館のハリストス教会は、そうです、ニコライ堂と同じ正教の教会ですね。^^
S.ペテルスブルグで学んだ山下りんのイコン画でも有名な、ニコライ堂、
実は私の両親の出会いとも少なからず縁のあるお堂で、以前、そんなこともブログに書いておりましたので
今度ご紹介したいと思います。^^
寒さが増すうえ、仕事やお付き合いなどでこの季節は体もこたえますね、鍵さまもくれぐれもご自愛下さり
睡眠時間をしっかり確保して、元気にお過ごしくださいね。
といいつつ、自分は今日年賀状書きで夜更かししそうです(苦笑)。
いつも暖かいお気持ちで共感して下さり、鍵さま、本当にありがとうございます。