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2018.11/08 [Thu]
大河ドラマ 八重の桜 第25回「白虎隊出陣

歴史ドラマ 八重の桜 第25回「白虎隊出陣」
あの名作が帰ってきた!
平日 朝8:00~午前9:00 深夜1:15~深夜2:15(月~金、毎日放送)
制作年 2013年
制作国・・・日本 ジャンル・・・歴史ドラマ
総話数・・・全50話
出演者・・・綾瀬はるか、西島秀俊、長谷川博己、オダギリジョー、綾野剛、玉山鉄二、市川実日子 ほか
八重の桜25回の視聴率は12.9%。土方に「愚かなほどまっすぐな会津に惚れた」と、残る決意を告げる斉藤。「今日からわだすが三郎だ・・・会津を滅ぼしにくるもんを、わだすは許さねえ!」と八重。そして若き白虎隊に出陣を命じる、容保の苦悩。ついに三郎となった八重に、出陣の日が訪れ・・・
チャンネル銀河・八重の桜HP https://www.ch-ginga.jp/feature/yaenosakura/


八重の桜OP、BGMにドゾ http://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
第25話あらすじ
1868(慶応4)年8月、二本松を陥落させた新政府軍はついに会津領内へと陣を進めてきた。陰暦の8月中旬は現在の10月となっており、奥羽には寒さが忍び寄っていたため、寒さに弱い西国兵は使い物にならないと睨んだ佐川官兵衛は、雪まで持ちこたえれば、戦況も有利になると説く。鬼の官兵衛と敵に恐れられている官兵衛を、藩主容保は 日光口で奮戦する山川大蔵と共に家老に昇進させる。そして、万一敵に峠を破られたときの籠城戦の備えと、会津は自分達の手で力ひとつにして守らなければならないと語気を強めるのだった。
しかし、敵もさるもの 板垣退助・大山弥助ら新政府軍もまた、冬が来る前に会津を叩くべく、母成峠から会津に攻め入る策を思い立っていた。
その頃、竹子(黒木メイサ)は戦に備え、女性たちによる薙刀隊(娘子隊)を編成する。女達から八重にも是非との声がかかるが八重はあっさり断り「いまお城を守れんのは、薙刀でねえ」とつぶやく。
8月21日、新政府軍が母成峠を攻撃、会津の手勢800人に対し猛然と攻め寄せる3000の軍勢の前に会津軍は猪苗代城への撤退を余儀なくされる。その日の早朝、15歳から60歳までの男子は全員城に入るよう家並みのお触れが出、山本家でも権八(松重豊)と尚之助(長谷川博己)の出陣祝いが行われる。そこで八重は父に、鉄砲も大砲も戦法も身に着けている自分を 戦いに連れて行って欲しいと頼み込むが、権八は娘を戦いになど出せぬと一蹴し、「三郎の仇は俺が討つ」と言い残し、去っていく。その権八の胸襟には、幼い八重が描いた鉄砲の絵がしたためられていた。山川家でも、祖父(兵衛)や母の艶ら家族が、健次郎を見送る。
戦況はますます悪化し、猪苗代城も落とされたという知らせを聞いた容保は滝沢本陣で自ら指揮を執る決意を表明。容保を城から送り出す照姫は、時尾はじめ城の女性達に介抱にあたるよう言いつける。会津軍は時間稼ぎの作戦として新政府軍の大砲や大量の武器を搬送させないよう、※母成峠ルートの十六橋を壊すはずであったが、怒涛の進軍を続ける敵に橋を奪われ、窮地に追い込まれる。その先の戸ノ口を奪われては一気に城下に踏み込まれるため、容保は本陣の兵を二手に分ける事を決意、苦渋に満ちた決断を下す。ついに予備隊であったはずの白虎隊士中二番隊に出陣を命じる容保。
八重は砲術を指南した弟のような伊藤悌次郎はじめ白虎隊士たちに最後の助言をして送り出す。隊士達のヤーゲル銃は敵の最新式の銃に遠く及ばない。「敵をよくひきつけてから撃ちなんしょ。まともに撃ちあって命を粗末にしてはなんねえ」と。 まもなく登城の触れがとうとう八重たちにも回ってきて涙ながらに徳三やお吉に別れの挨拶をする家族。「いままでありがとなし」
雷鳴轟く横殴りの雨の中、食料調達に出た隊長とはぐれ、孤立する白虎隊。そして、まだ明けきらない城下に激しい半鐘が響き渡ったころ、登城の支度をし終えた母の前に現れた八重の姿は・・・
・・・ということで、次回は第26話「八重、決戦のとき」です。
※母成峠とは・・・現在の郡山市と猪苗代町にまたがる峠。天然の要害な上、土方歳三の新選組と大鳥圭助が大砲を三段構えで配置していたため西軍も容易には落とせなかったが、村を焼かれて会津軍に恨みを持つ農民の手引きで会津陣の背後を狙う作戦が功を奏し、意表をつかれた会津軍は総崩れになり、ついに兵力に勝る板垣退助らの率いる新政府軍に壊滅的な敗北を喫した。
第25話ぷち・ギャラリー
怒涛の勢いで進軍する薩摩、土佐の新政府軍

会津藩は城下に至る道を全て封鎖する作戦を採る容保だが・・・

<山本家の出陣式>
会津藩い伝わる出陣祝いだ。「勝って(勝ち栗)、まめで、来る身(胡桃)を待つ」

祝いのさかずき

ただ黙ってみているなんてできねえ!おとっつぁま・・わだすもお伴させてくなんしょ!

ならぬ・・!三郎の仇は、わしが討つ!!
・・・・・・。

思うことがありそうな尚之助
<それぞれの出陣と別れ>
母に和歌の短冊を受ける山川健次郎

「天下 とどろく名をばあげずとも 遅れなとりそ もののふの道」
頼母の出陣支度を整える千恵・・・妻との別れ

頼母は背炙山に布陣、萱野は大寺に、勘兵衛は強清水に、それぞれ部隊を率いて急行したが・・・

斉藤「私は会津に戻りやす!今会津を捨てるのは義にあらず・・・!」土方「惚れた女でも?」

ええ、愚かなほどまっすぐな会津という国に・・・!
<白虎隊の出陣命令>
みなのもの、武運を祈る!

苦渋の決断を・・・

八重が銃を教えた伊藤悌次郎も出陣

よーぐ引きづげで撃ぢなんしょ!遠間で撃ぢあわず、引きづけでがら!(叫ぶ八重

悌次郎「こくん」
<ついに破られた十六橋 自ら前線へと向かう容保>
ザッザッザッ

<牢獄内 流行り病で瀕死の覚馬>
や、八重・・・八重・・・ 八重に一縷の望みを

西郷「死なすには惜しか・・医者にみせい」
<薙刀(娘子)隊を結成した竹子>
「私達が楯となって、照姫さまをお守りしましょう」「八重様がいてくれたらどんなに心強いか」

八重「わだす・・わだすはご一緒できねえから」「えっ?」
<登城の日、八重は・・・>
や・・八重・・おまえ、その恰好は・・・?

今からわだすが三郎だ・・・

会津を滅ぼしに来る者たちをわだすは許さねぇ。わだすは戦う!
八重の桜、こんなところが好き!感想&雑記
「鉄砲を教えたことが、あだになんねえといいが・・・」
八重のいつかの言葉が、不吉にエコーした第25話。
もののふの心は、年長に劣らずとも、おしくらまんじゅうで暖をとるあどけない白虎隊士の笑顔に、胸の痛みを覚えずにいられない。
生きるのも必死。死ぬのも必死。
彼らの生きざまは、いつでも超本気なのですね。
こんな なまくらな現代に、適当に生きている自分の情けなさを感じます。
彼らだけでない、彼女らも。
「私達が楯となって照姫さまをお守りしましょう」
「いざとなったら、一戦交えて・・・」
と、竹子たち。
そして八重の
「会津を滅ぼしに来る者たちを私は許さない。私は戦う!」
会津は男だけでなく、間違いなく女も武士なのだと感じ入る一方、どんな危急にあっても歌の中に思いを綴れる、雅なこころを忘れない 知的で文化的な会津びとを感じさせました。
以前、会津のことを何も知らない京の貴族や長州の過激派が会津を田舎者扱いし嗤ってたことがありました。
しかし、少なくとも、ここに登場する会津の人達は、八重も覚馬も、家族をとりまく人々もみな知的で気高い人ばかりです。
というより、当時から会津は田舎者などでなく、武門の誇りと独自の精神文化をもった、立派な文化国であったことーーそんな国の人たちが京の都に行き戦いに巻き込まれ、ついに賊軍の汚名を着せられてしまう不条理さ。不器用なまでの義理堅さと知性が、悲劇を生んでしまったこと。
資料の野口信一氏も、藩祖保科正之公の徳川幕府への思いが凝縮したような「愚かなほど真っ直ぐな心、さらに頑迷固陋頑固で融通が利かないという精神性」が、裏工作や権謀術数とは無縁な彼らを、官・賊、順逆を逆転させてしまったと指摘していましたね。
不思議と、この「愚かなほどまっすぐな」会津に惚れこむ男も、またいるのですね。
今回の斉藤一の台詞のなかに、視聴者は少なからず共感を覚えたと思います。
もう死んでしまった価値観かもしれないけど、この会津の人々の心こそ日本という国の根であるような気がします。
この愚直さと、時代に逆行する頑迷さゆえに負のスパイラルに嵌っていった会津。
滅びの道を辿るのは必然の理だったのでしょう。
けれど、会津は滅びても、愛は死なない。
戦が命を奪っても、家族がいっとき引き裂かれても、絆までが引き裂かれることはない。
今日、八重ファンの友人から、ラジオでこんな嬉しい予告があったと聞きました。
(※ネタバレ駄目な人、注意)
戦が終わったあと藩士(男)は猪苗代で謹慎を命じられ、その時三郎として参戦していた八重も男として連行されるところを、いざ出発の時、尚之助が「ここに女がいるぞ!」と叫んで、八重を行かせないようにするシーンがあるそうです。史実とは違うかもしれないけれど、八重を危ない目にあわせたくない尚之助の気持ちに涙、涙・・・脚本の山本さんの素敵な機転に、乾杯ですね。
思えば山本むつみさんは、「脚本家が語る八重の桜」のなかで、
”八重と尚之助は互いに尊敬しあう、実に仲睦まじい夫婦であったと思います。ーーーふたりがどんな形で別れを決断したとしても、すべてはお互いを思いやる気持ちからのことです。”
・・・と語っておられましたが、史実とからめつつ、こんな演出をするなんて、八重でなくても涙が出るほど粋ですね。
とりわけ(自分を含め)尚之助&八重カップルを応援しているファンには、会津のはぐくんだ強い絆を信じ、この先どんな結果が待っていようとも、肯定的な気持ちで彼らを見守れることでしょう。
八重の桜



今日は母たちの優れた名歌が織り込まれていました。
どちらも、白虎隊士の母の歌ですが、息子を戦場に送り出す母の心情が溢れ出ていましたね。
25話は歌をサブテーマとしていたことから、白虎隊に思いを馳せてみました。
母の血縁の従弟同士、同じ年に生まれ、数奇な運命を辿る白虎隊に入隊し、生き残った山川健次郎と飯沼定吉。八重25話でも、その母たちの歌が取り上げられたのも不思議なシンクロ。
「とどろく名をばあげずとも 遅れなとりそ もののふの道」
白虎隊の隊員となって戦地に赴く健次郎に母・艶が贈ったのは、決して門出を祝う歌とは思えぬ含蓄のある歌。
”名を挙げなくてもいいけれど、命を惜しんで遅れをとってはならない”
戦場で散るのが会津武士として正しいこととしながらも、無事に帰ってきて欲しい、という母の本音を、聡明な健次郎は魂のアンテナで理解していた気がします。
だからこそ生き残って、兄・大蔵に責められても、残されたものの使命をきちんと果たすべく出世して 東大総長にまでなり、会津の正義を世にただした。
同じ白虎隊士でも、死んで会津武士のいさおしを世に残した悌次郎とは違ったやり方でーー
人は 再び立ち上がることが出来る、というメッセージを発信した、もう一つの白虎隊士のありかた。
これも母の無言の祈りだったかもしれない。
飯盛山で自刃したが、一人だけ蘇生し、天寿を全うした飯沼定吉の墓

そして、八重紀行で語られた、白虎隊士・飯沼貞吉の母のおくる歌。
「梓弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ武士(もののふ)の道」。
”武士が戦場にのぞんだら、決して逃げ隠れをするでない”
さすがは、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人だけあって、きりりとした句です。
一見、厳しい武士の心得書のような母の和歌を、定吉は襟に縫い込み、戦ったといいますね。
けれど、引き返すのは武士の恥と言いきかせながらも、じっさい、定吉の母の文子は、飯沼家の若党・藤太に頼んで、貞吉の行方を捜させていたのですね。ようやく親子が再会し、「何とも申し訳のない感じがして、暫く無言で居た」とは語りつつも、その無言のなかには、哀しみ以上に、あふれる情がこみあげていたのは、論を俟たぬこと。
雨のように弾丸が降り注ぐなかを銃身が触れないほど熱くなるまで応戦し、勇敢に戦った白虎隊。その中で奇跡的に一人蘇生した彼は、飯盛山で自決した白虎隊士達の壮烈な最期を後世に伝える天命を受けたからこそ、唯一人この世に残されたのかもしれない。
八重もそうでしたが、
昭和まで生き、容保公の孫・勢津子姫が皇室に嫁ぐのを見届けた貞吉は
「よろこびをかわすことばにどよむらん いいもり山の苔の下にも」との歌を詠んでいます。
”飯盛山の苔の下にも”・・・喜ばしい筈の祝婚歌でありながら、やはり仲間の死を悼む気持ちが切々と・・・涙なしには読めない句です。
ちなみに、一度死んで、また生きることになった貞吉(維新後、貞雄)は、昭和六年まで生き、七十七歳という長寿を全うします。戒名は、白巖院殿 孤虎貞雄居士。
孤り(ひとり)残った白虎・・・
数奇な生涯を辿った、熾烈な彼の生きざまが いみ名に偲ばれる思いです。
※「白虎隊の悲劇の真相」は、こちらを参照してください
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-989.html

白虎隊の舞台を訪ねて

※タイムリーなリクエストがあったので載せてみました。
<鶴ヶ城と飯盛山 つわものどもが夢のあと>
4月末、満開の桜・・・鶴ヶ城が一年で一番美しい日に訪ねることができました

梅と桜が同時に咲く会津・・・ああ、東北なんだなぁ、と実感

去年、赤瓦にリニューアル。150年前当時の色そのままにお化粧直しして、再デビュー
<飯盛山で毎年同じ日に行われる白虎隊士の慰霊祭>
どうしても見たかった・・・間に合いました!

白虎隊と同世代の、会津高校剣部会の生徒による白虎隊の舞い 一糸乱れず、見事な舞いでした

主将の謡いに合わせ、みごとな剣舞を披露する、現代の白虎隊士19人
後ろ中央に見える円柱は85年前ローマ市から寄贈されたもの。白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市が、ポンベイの遺跡から出土した宮殿の柱に「白虎隊士の遺烈に敬意を表し、古代ローマの権威を表すファシスタ塔章の鉞(まさかり)を飾り、永遠偉大の証たる先年の古石柱を送る」と刻み、武士道の精神に贈ったもの。
戦前、ヒトラーと共に権力を振ったファシスタ党の権力者ムッソリーニの時代だからこそ出来たことだそう。今ではとんでもない貴重な世界遺産の円柱をよく惜しげもなく・・・すごいことです。これも時代の遺産ですね。
この日は、TV局はじめ沢山の報道陣が撮影にきていました。
鶴ヶ城を目指し、この弁天洞門(戸ノ口堰)をくぐって飯盛山へたどりついた白虎隊士たち

清冽だがあまりの水の冷たさに、隊士達の労苦と勇気を思います(涙)
中央の墓は、八重の桜でもおなじみ、伊東悌次郎。八重の鉄砲の教え子でもあった

<会津のピサ斜塔といわれるさざえ堂>
この向かいの寺にも白虎隊士達の霊が祀られています
世界に一つしかない構造 江戸時代の建築

入口と出口が違う・・同じところを通らない不思議。
白虎隊士二番隊がまつられた堂

365日香の煙が絶えないそうです
「八重の桜」オープニングで映る、会津の五桜のひとつ、名物の石部桜

飯盛山を臨んで 山裾にはさざえ堂が
<白虎隊慰霊フェスタでお知り合いになった猪苗代藩士たち>
慰霊祭は十時半からだったのですが、白虎隊士の登場を待つ間、たまたまお隣でご一緒した会津の人達に、会津の貴重なお話を聞くことが出来ました。歴史に造詣が深く、大変な物知りでいらっしゃり、八重の桜に関する事だけでなく、幕末の歴史を、会津の視点からお話しいただいたのが印象的でした。
また、リアル会津の人でないと知りえない(?笑)、容保公のご子孫の楽しいエピソードなど(^o^)・・・会津のお殿様と藩の人々の温かいふれあいは、いまも時代を越えて生きているのですね。
会津によく来らったなし 猪苗代も是非訪ねてくなんしょ

現代の玄武隊士、知的で優しい会津イケメンでした❤(許可を得て撮影・掲載)
お話ししていて、大変知的で、どこかやんごとなき風情を感じていたのですが、郷土史理事や山岳会の会長、野口英世記念館の学芸員の方達でいらっしゃり、観光客が真っ先に訪ねる土津神社(会津公の始祖・保科正之の祀られる神社)でいただく「保科正之公の史跡を訪ねて」というガイドマップを書かれた方々でした。
県の認定するツーリズムガイドでもあられるので、ブログをご覧になっている皆様、ふくしまにお出かけになる際はぜひ、お問い合わせされてはいかがでしょうか。^^
猪苗代名士の方々なのに、飾らない気さくなお人柄に、会津の優しさを感じました。
いただいた言葉
会津藩は婦女子にいたるまで一丸となって武士道・義を
貫いた最後の藩だと思います。
歴史を考える」敗者の風景で
司馬遼太郎氏は「日本の幕府の崩壊期に会津藩という存在がなければ
日本人なんて信用できませんね、会津藩があったればこそ、
われわれ同民族をちょっと信用できる、という感じがあるんです。」と
言っています。
猪苗代の偉人を考える会・会長江花さまより
会津には「三度泣き」という言葉があるそうですが、旅のなかでふとその言葉を思い出しました。
最初は 会津の頑固さに泣き、次にその人情の深さに泣き、最後は会津を去り難くて泣く、という言葉です。
芦ノ牧、猪苗代、若松、東山・・・多くの現地の方達とふれあうことが出来、心に沁みる言葉をいただきました。「がんばろう東北、頑張ろう福島」という声はむしろ、応援者の私達に向かって、優しく逞しい福島の方々から「がんばろう日本」と響き返された気がします。
うつくしま、ふくしま。 素晴らしい旅でした。
美雨
26話「八重、決戦のとき」 http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1032.html へ続く
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
❤おまけ❤期間限定八重たん弁当

さくらづくしなんだなし!お好きなのを食べらんしょ♪
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- at 22:45
- [チャンネル銀河 大河ドラマ八重の桜 再放送]
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鷹虎 さま
東北はまだ雪は積もってはいないようですね。
今年はやはりエルニーニョの現象で、全国的に暖冬なのかもしれません^^。
> 「ひまわり」は戦争が引き裂いた男女の愛を切なく描いた名画で今でも録画を消さないで残しています。
> 応援です☆彡
おっしゃるとおり「ひまわり」は名作中の名作だと思います。
音楽も映像もあんなに美しくて、俳優さんたちもきれいな人ばかり・・だからこそ、なおさらに戦争の残酷さが悲しみをさそうのでしょうか。
コメント、ありがとうございます。