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2018.12/19 [Wed]
大河ドラマ 八重の桜 第41回「覚馬の娘」 感想、あらすじ ~何かあったら大声で俺を呼べ~

歴史ドラマ 八重の桜 第41回「覚馬の娘」
あの名作が帰ってきた!
平日 朝8:00~午前9:00 深夜1:15~深夜2:15(月~金、毎日放送)
制作年 2013年
制作国・・・日本 ジャンル・・・歴史ドラマ
総話数・・・全50話
八重の桜第41話の視聴率は12.4%。政治家として、そして又父として正念場の覚馬。過去は変えられない。「変えられんのは先のことだけだ」と、みねの門出にはなむけの言葉を贈る八重。復興にむけて頑張る福島と東北に熱くエールを放つ大河ドラマ”八重の桜”、共に見守りつつ、虹の桜前線を拡げていきたいですね!
チャンネル銀河・八重の桜HP https://www.ch-ginga.jp/feature/yaenosakura/

八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
第41話あらすじ
明治13年5月。板垣退助(加藤雅也)たちの自由民権運動が勢いを増し、政府は集会条例を発して演説会を取り締まった。それにもまして伊藤や岩倉が頭を抱えたのは、国家財政のひっ迫で、地方の増税に踏み切らざるをえなくなった。
京でも 独断で追徴課税を決めた槇村に、 覚馬は「府の予算はまず議会で審議するのが決まりであり、人民の財産を勝手に奪う事は許されない」と意見するが、槇村は「逆賊が・・!」と吐き捨て、聞く耳を持とうとしない。覚馬は怒りをこらえ、松野らと相談し 槇村の横暴を弾劾する上申書を政府に提出。しかし、政府は槇村のやり方を黙認し、審議不要との回答をよこすのだった。
その頃、今治の教会に行った伊勢(横井)時雄から時折、妹のみや子に手紙が届くようになる。みねによろしくとの追伸をを胸ときめかせて聞くみねを、ひやかす学友たち。みねは時雄を心ひそかに慕っていた。しかし、自分が山本家の跡取りであるという責任感が、みねを縛っていた。そのために、時栄に遠慮し身を引いた実母のうらは会津に戻り、みねを京都に送ったのだ。そんな母の思いを、みねは肩に背負って生きてきた。
8月になり、府議会が閉会になる時期を待っていたように、槇村は税の追加課税を強行するとの通達を出し、それと同時に議員一人一人に密偵をつけて行動を監視した。そこで覚馬はあらたな一手を打ち出す。「知事よりもっと大きな力を味方につける・・・!」後日、新聞各紙に、槇村を弾劾する記事の見出しが躍る。世論を味方につける作戦は見事に当たり、槇村はほぞを噛む。 その頃東京で新聞記者になろうとしていた徳富猪一郎も、この騒動を知り、次々に新聞を閲覧する。「これが新聞の力。言論の力か・・・」猪一郎は瞠目した。
税の追徴問題に決着をつける為に10月、臨時会議が開かれる。槇村は、5月に出した徴税の通達を取り消した。しかし、議員たちがほっとしたのもつかの間、槇村はあらたに税の追加徴税を府会に命じる。改めて手順を踏むことで筋は通したと槇村は事実上の勝利宣言をしたが、覚馬には新聞や世論を味方につけた強みがある。「戦いに敗れても、義はどっちにあっかを、世に問う事はできます。もう、戊申のころとはわけが違う!」覚馬は自身の辞職と引き換えに、槇村に勇退という花道を勧めた。痛み分けで事をおさめようとする覚馬に、槇村は、それならば「演説会を禁ずる府の条例を撤廃する。さぞ開明的な知事と新聞でも評判があがるじゃろ」と妙案を出す。覚馬はにこやかに頷く。「槇村さんの手腕なくして、京都の復興はなかった・・・私は敬服しています」覚馬の言葉に嘘はなかった。翌年明治14(1881)年、槇村府政は終わりを告げた。
この年の5月、同志社演説会が催されることになり、各地で伝道にいそしんでいた伊勢や金森、海老名らが新島家に集まる。初子やみや子も来て一同が顔をそろえるなか、なんと伊勢がみねにプロポーズ。今治の信徒を格段に増やした伊勢は、500人規模の大きな教会を建てる意欲をみせ、そのためパートナーとして、みねを妻に欲しいという。覚馬は悪くない縁だといい、快諾するが、肝心のみねはうかない顔だ。しまいに、みねは、うちには久栄がいっから、もう私がいなくてもいいんだべ!おとっつぁまは、今度は私を放りだすのがし!」と胸にしまいこんだ母と自分の思いを吐き出す。その夜八重は、あねさまは家のためにみねを手放したのではなく、どうしたらみねが幸せになれるかを考えて決めたのだ、兄つぁまもそうだ、と言い聞かす。翌日、大勢の観衆の前で伊勢が「神と愛と隣人への愛」について語る中、みねは覚馬の横に座り、伊勢と今治に行く、と告げる。「何があっても離んじゃねえぞ・・・だけんじょ、困ったときは大声で呼べ。おとっつぁまが、助けに行ぐ!」父のはなむけの言葉に、みねの頬に熱い涙がこぼれて落ちた。
この頃、佐賀出身の筆頭参議・大隈重信が、薩長派閥の政府を強く批判、これを機に自由民権派が要求していた国会の早期開設を望む声が、一段と高まっていく。形勢の挽回を迫られた岩倉や薩長派閥の伊藤、山縣は、明治天皇の聖断という切り札を出し、大隈派の一掃と引き換えに、9年後の明治23(1890)年に、国会を開設するとの詔勅を得た。
襄もまた、次なる目標として、同志社を大学に作りかえることを発願。国の権力に左右されず自由自治の精神を貫くことが出来る人材の育成だ。八重と襄との、あらたな戦いが、始まった。
・・・ということで、次回は第42話「襄と行く会津」です。
八重の桜41話 今週の名シーン
<かよう思い>
みねさんによろしくって書いてあると。

「心づくしの靴下、大切にいたし候・・」 靴下??
<覚馬 VS 槇村>
知事と言えど、人民の財産を勝手に奪うことは許されません

槇村「議会は知事の指示に従ごうちょれ!」

覚馬「我々は府民の代表であって、知事の部下ではない・・・!
<翌日のかわら版:新聞>
さすが覚馬さんだ!これは世論を味方につける作戦ですよ。

やっぱりあんつぁまは負けてねぇ!
おのれ~ぇぇ! 山本覚馬! どこまで逆らう気かい~ くぅぅぅ~


これが新聞の力・・・言論の力か?

槇村さん、そろそろ引き時ではありませんか?

これ以上新聞に書き立てられれば、あなたの名に傷がつく


私は・・・本日をもって職を辞します

戦いに負けて私は議会を去る・・・あなたは勝って知事の面目を保った、それではどうですか?
くっ


じゃ

この十年ワシャ~あんたを使おうちょるつもりんじゃった。じゃが使われとったんはワシの方かもしれん

槇村さんの手腕なくして京都復興はなかった・・・私は敬服しています。
<プロポーズ>
みねさん、妻になってくだはりますね。

おとっつぁまは・・・今度は私を放りだすのかし?

みね・・昔を変えることは誰にもできねぇ、変えられるのは先のことだけだ。

これからのことは、みねが自分で決めたらいい・・・あんつっまが望んでいんのは、みねが幸せになることだ
あたし、伊勢さんと今治に行きます

そうか・・決めたのか!? だったらいい・・どこまでもついていけ。何があっても離れんじゃねえぞ
だが・・どうしても困ったら、そんときは大声で叫べ・・・おとっつぁまが助けに行く!
<かどで>
いってきらんしょ。気ぃつけっせ!

いってきます

<踊るデモクラシー>
大隈を取り除きましょう!

大隈一派を一掃する代わりに国会開設の詔書を発布する!ただし開設までには10年近く要するとの条件付きだっ
<ジョーのあらたなる戦い>
人民が国の舵取りをする時代がくるのです。一国の両親となる人物を大勢育てなければなりません。

それには大学が必要です。国の権力に左右されずに、自由自治の精神を貫く私立の大学が・・・!
八重の桜、こんなところが好き!感想
良かったですね!41話。
冒頭でいきなり出てきた伊藤博文、岩倉、板垣。
千円札、五百円札、百円札が揃い踏み、デラックスですね。明治を髣髴とします。
いえ、そろい踏み・・・ではないですね、
府会が反対しても議案を執行できる知事の権力、「ワイフ仕入れ所」と書かれた落書き・・・デモクラシーへは程遠く、そのために板垣は奮闘しているんですね。
思えば、江戸時代が終わって日本はいきなり民主主義国家になったのではなく、こののち多くの民を犠牲にしてこそ今の国家の形が出来た訳ですね。
今回は、大隈重信先生も出てきましたが、彼は史実上も襄のよき理解者でした。
わからずやばかりの中で、ジンジャークッキーだけが開明的。(笑)
今日は思いっきり覚馬とみねちゃんが主人公でしたね。
娘の結婚を知った時、まずは反対されると思った娘。
その娘の心配をよそに、あっさりと認めてくれたら拍子抜け。
自分を愛してくれてないのではないかと、逆に疑ってしまいますね。
この娘ごころ・・・私にも、覚えがあります。
3人一緒に暮らしたいというみねの気持ちも、痛いほどにわかります。
歴史上は偉大なヒトでも「ほんとに、いけないトーチャンだよな」と相方がボソリ。
けれど、やはり血は水よりも濃く、父の愛を心の奥底では受け止めているみねちゃん、
未来の旦那さんの演説中に雑談はいけませ・・・いえ、結婚の決意表明なら、OKですね。^^
おりしも、伊勢の演説のテーマは「神の愛と隣人愛について」でした。
マタイ伝、「良きサマリア人」の譬えのなかでも示唆されている、アガペー;神の愛、無償の愛。
これは、自己を犠牲にして、みねだけを夫のもとによこした 母;うらの愛であり、多くを語らぬが火事場の覚馬力で偵察者からみねを救った父の愛でもあります。また、会津で覚馬が亡くなったと思いつつ、父の代わりにみねに愛情を注いだ佐久や八重の愛でもありますね。そして、そんなメンバーに疎外感をおぼえつつ、久栄をいたわる時栄の愛もまた・・・あらゆるアガペーな愛のかたちをを、山本家のなかに見た気がします。
みねの着物が、ピンク色から、ことほぎの白無垢を思わせる白に。
人生の門出・・・美しい旅立ちです。
マタイ伝で思い出しましたが、「山上の垂訓」において、イエスは、知人や友人、家族などを愛するだけでは十分ではない。そういうことは異邦人や取税人もしている。わたしの教えに従う者は、みずからの「敵」さえも愛さねばならないとして、単なる「隣人愛」以上の普遍的な人間愛を語っており、このような愛を通じて、「神の子」となりえるのである、と説いています。
これって、まさしく槇村に対する覚馬の憐み・・・敵さえも憐み、敬愛しようとするあんつぁまの人間愛では・・・と感じてしまいました。もちろん、議会や血税を払っている京の民くさを思っての策士的な部分も、彼にとってはアガペーな武器なのでしょう。
また一方で、覚馬がなぜ京都の”都市おこし”に、それほどまで心血をそそいだのか。それは「反中央意識」によるものであろうと考えます。
覚馬は明治政府をつくった薩長の人間ではありません。あくまで薩長のつくった中央政府に媚びることなく、ひろく世界に眼をむけた原理原則で、第二の故郷である京都の再興に全力をあげたように思います。そういう一貫した姿勢がはっきり顕れているのは、槇村正直に対する覚馬の態度ですね。
今まで槇村を庇い通してきてあげた覚馬も、追徴事件では、一転して知事の槇村を糾弾する側にまわり、追い落とすまで手加減しませんでした。
あの「管見」で覚馬が述べた「臣下に権を分かつを善とす」という思想をそこに見ることができます。
思い返せば、小野組転籍事件は「中央政府」と「京都府」、地方税追徴事件のときは「京都府」と「府議会;つまり市民」というのが対立パターンです。
覚馬はつねに権力者側ではなく市民;民草の側に立っています。そういう姿勢には維新戦争に敗れた者の反中央意識に一脈通じるものがある。終始一貫、どこまでも筋をとおすという姿勢に、会津人気質を見ることが出来ると思います。
明治編に入り、なんだか存在感薄れゆく中、今日はもう独壇場と思えるほど光彩を放っていた覚馬、見えない目で丁々発止と戦うあんつぁまに、会津時代を思い出させる命の輝きを感じてしまいました。
見事なツンデレ父っぷり、やるときゃやんのよ!とばかりの”ダメぽ父”倍返しでしたね・・!
残り10回を切った「八重の桜」。
最終回まで、どこまで魅せてくれるか、楽しみですね。
キャスティング❤今日のフィーチャー
<熊本バンドの一員、みねの夫 伊勢(横井)時雄>
新島邸のオルガンで、アメージング・グレイスを弾いている時からビビっと来るものがありましたが、容姿端麗にして品性高潔、熊本バンドの中でひときわ煌く伊勢(横井)時雄。
その時雄を演じる黄川田将也(きかわだまさや)さん。
1980年生まれ。映画「ホワイトアウト」でデビュー。ドラマ、映画のほか「ボン先生」など舞台でも活躍。NHKでは、「風のハルカ」大河ドラマ「利家とまつ」「天地人」に出演。

赤い糸同士が出会いました。キリリと聡明さ溢れる明眸、それもそのはず。彼は松平春嶽の政治顧問を務めた横井小楠の長男。前回紹介しましたが、父・横井小楠は儒学者にして政治家、維新の十傑の1人である横井 小楠(よこい しょうなん)で、又、その妻は徳富蘇峰、蘆花、初子の母と姉妹同士。つまり、蘇峰兄妹と時夫は従弟にあたります。また、時雄の妹(くまもんガールズ)みや子は海老名弾正の妻となっています。
熊本洋学校在籍中に「熊本バンド」に加わった時雄は、さらに開成学校に学び、同志社英学校に転校。卒業後は愛媛・今治で伝道に努め、みねと結婚。アメリカ留学を経て東京本郷教会の牧師となり、その後、同志社の社長を務めたほか政界にも進出、東京日日(にちにち)新聞の主幹となるほか、多方面で活躍することに。父の名に恥じぬ功績を以て明治の世に貢献します。
八重の桜



天皇が京都に移ってさびれた京都は、殖産興業と文化復興で復活をはかります。
明治政府の殖産興業推進の波に乗り、各地で競って博覧会が開催されます。政府が援助して全国規模で行われる内国勧業博覧会は、第1回~3回までは東京、4回目は京都で行われています。
下は、にぎわう内国勧業博覧会の図。(1895)

第二次京都府知事・槇村正直に関しては、評価は実にさまざま。昔長州藩で、密用聞次役という秘密警察の任務に就いて、スパイのようなことをしていたそうですから、今回の、議員ひとりひとりに密偵をつけるという発想も槇村らしい。とにかく早く京都を拓くために、自分の信じる道を突っ走る男。事実、京都では剛腕を振るい、寺を潰してまで繁華街を作り、それが今の新京極通りであり、”都をどり”を発明したのも槇村だと言われています。キリスト教の考え方で復興を進めようとした覚馬や八重、襄とも仏教や神道が根付いた京都でなければ、うまく仕事ができたかもしれません。
一方、博識と人脈を買われ槇村のブレーンとなった山本覚馬の府政指導は、教育に留まらず、病院建設や万国博覧会の開催、鉄道の敷設(ふせつ)などにも向けられていました。科学研究所である「舎蜜局」はらは、さまざまな事業が派生し、中には現存する企業もあって、覚馬の足跡を知れば知るほど驚き・・・もと会津にいたときから蘭学所を作ったり京都では洋学所を構えたり、チャレンジングな人物でしたが、視力と脚力を失ってからのほうがむしろ真価を発揮し、才能を開花させているようです。
39話で、襄の同志社英学校設立に際して、キリスト教を認めない槇村と対立、解任されてしまいましたが、その後覚馬は京都府議会議員に当選して初代議長就任を果たします。覚馬はこの間、琵琶湖疏水開通など、京都復興に貢献しています。

今回41話は、二人の争いの真っただ中。京都府知事という立場を利用し、府議会の意見を無視する槇村の独断専行を制すべく、覚馬が考え出した策とは、世論を味方につけることでしたね!新聞の力、言論の力に目を瞠った猪一郎(のちの蘇峰)は、この経験を生かし、のちに(1888年)「同志社大学設立の旨意」を執筆、20を超える新聞、雑誌に公表し、成功を収めています。
さて、槇村という男は仕事のできる有能な人物であったものの、独断で税金の追徴をきめてしまうあたり、非常に倣慢なところが致命傷となった。小野組事件の借りは同志社設立許可で返したと、恩を着せる始末。しかし覚馬は互いの温情行為ヌキに、知事の越権行為を徹底的に糾弾しています。彼は何よりも槇村知事の議会の軽視が許せなかった。高圧的な知事におびえる議員たちを、実際に「そんな弱腰でどうするのか」と、尻をひっぱたきながら陣頭指揮に立ち、ついに槇村を辞職に追い込みます。議会というものが何なのか・・・覚馬は具体的に議員たちに教え、さらに市民たちを啓蒙しようとしていたのですね。
今回は痛み分け、という形で槇村府政は終わりをつげるものの、槇村はのちに元老院議員や行政裁判所長官に返り咲いていますから、さまざまに動けて役に立つ人間だった事は確かなようです。
八重の桜



今、八重の桜ドラマファンの間で評判の話題の八重のファッション。会津から京都へ、縦横無尽に奮闘する八重は、その着こなしのセンスも光る♪ 「鵺;ぬえ」と呼ばれたということ自体、それが八重のスタイリングの真髄みたいな部分。海外文化を知る八重ならではの小物づかい、和洋折衷の見事な組み合わせが明治のファッショナブル・ウーマンの秘訣なのかもですね。

八重は、和ベースに洋、洋ベースに和をたす、いずれも彼女らしいコーディネートだと、衣装の専門家も絶賛。例えばずっと はき古してる袴をスカートに改造したり、まるで銃の改造と同じようなレベルで衣装を変えてしまう。
そう、彼女は恐れない。戦いをしてきた人だから・・・
戦いの中で、怖れ、というものも十分あった上で、それを克服する強さをも、持っている八重。
西洋の文化に対しても”良いものは、良い”と受け入れる天真爛漫さも持っています。
そこで、ちょっと八重の鵺スタイル・ファッションをご紹介♪
<創意と工夫で紡ぐ、和洋折衷スタイル>
左下は、明治21年(1888年)に撮影された八重のバッスルドレス(同志社大学提供)

ドレープが美しい、バッスルスタイルのドレス。バッスルとは、ウエストを細く絞り、お尻のあたりを高く膨らませるスタイル。19世紀後半に欧米で流行し、日本でも明治時代に上流階級のドレスとして人気を博しました。
ベルトのバックルにご注目☆ そこには、刀の、ある部分が・・・@@!そう、鍔!

袴をスカートに仕立てるアイデアは、鵺ファッションからヒントを得て衣装さんが発案したものとか。
(左)和装に黒いレースの手袋を合わせて、会津から京都へ、八重の内容に従い着物にも変化が。
八重自身、人間がやわらかになっていくように、会津木綿からやわらかな絹の着物へ。
生地の変化でも、微妙に雰囲気が出るんですね♪

(右)ブラウスに羽織をジャケットふうに合わせ、手には風呂敷と洋傘。
衣装デザイン監修の伊藤さんは、革新的な八重のスタイルを、
「オリジナリティーのあった人だと思う。創意と工夫が、常に人生にあって。娘の頃から鉄砲を持ちたいと思うぐらいだから、志のある人だった筈」と語っています。
考えてみたら、人から見られるということは、生きざまをみられる事でもあります。
学問を武器に戦っていく京都で、ビジュアルを武器にしていく精神も八重のなか自然に育っていても不思議はありません。
”鵺(ぬえ)”とは、頭、胴体、尻尾がちぐはぐなモンスター。現代の私達の価値観では、侮辱的にうつる言葉かもしれませんが、当時、八重を”鵺”と呼んだ人は、常軌では測りがたい発想や強烈さをもって、畏敬の念で表した言葉かもしれません。むしろ、褒め言葉のような・・・2倍も3倍も深みのある、鵺スタイルは、彼女の精神性をもっとも表したファッションですね。
時代の精神性を絶妙に映し出す服飾文化。これから、明治の社交場・鹿鳴館を舞台に登場する鹿鳴館の華と謳われた大山捨松(山川家の咲)や津田梅子(津田塾大創始者)のファッションも楽しみです。
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
今日も最後まで読んでくれてありがとなし♪

鵺モードな八重センセより
★ポチポチっとしておくれやす♪(>ω<)★(←京都ことばになった八重さん)




(>ω<)4ポチに感謝デス♪
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