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2018.12/31 [Mon]
大河ドラマ 八重の桜 第50(最終)回「いつの日も花は咲く」
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大河ドラマ 八重の桜 第50(最終)回「いつの日も花は咲く」
最終回「いつの日も花は咲く」の視聴率は16.6%、期間平均は関東地区14.6% 八重の人生を大きく変えた、会津戦争から30年。「敵味方関係なく、苦しんでいる人たちを救いたい」篤志看護婦として新たな道を歩み始めた八重は、どんな状況にあっても臆することなく果敢に挑んでいく。倒れても倒れても立ち上がりみごとな花を咲かせる八重の姿を胸に刻みつつ、ふくしまの復興を、これからもずっと応援していきたいですね。
NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/

八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
八重の桜第50回(最終回)あらすじ
1894(明治27)年、八重(綾瀬はるか)は従軍篤志看護婦として広島陸軍予備病院で看護婦たちの陣頭指揮をとり、日清戦争の負傷兵たちを看護していた。次々と運ばれてくる負傷兵の中には清国の兵もいたが、八重は赤十字の精神に則り、国境の隔てなく心を尽くして看護し、頑なだった敵兵すら八重に心を許し、礼を言う。看護にあたる本来の男性衛生兵達は、敵の清国兵が治療を受けていることや、若い娘が野戦病院も同様の現場にしゃしゃり出るなと文句をつけるが、八重は「敵なればとて、傷を受ける者は仁愛をもって助けよ」と”大山巌閣下の訓示”でピシャリと彼らを抑え、看護の務めには女も男もないと諭す。
この11月、司令官の大山は遼東半島の金州城を攻め落とすと、続いて東洋一の要塞を誇る旅順を陥落させる。
そんな折、広島陸軍病院に、八重と襄の教え子であった徳富蘇峰が、取材と称し訪ねてくる。ジャーナリストとして成功し、メジャー紙の社長となった蘇峰は、戦闘で負傷した兵士から勇猛な話を取材するのだとやっきになっている。八重は、兵士は戦闘だけでなく、コレラや赤痢などの伝染病で亡くなる人も多く、衛生面の向上を紙上で訴えて欲しいと頼む。院内で看護するうち自身も罹患し、命を落とした看護婦も少なくなかったのだ。しかし蘇峰は国民の士気鼓舞する記事を書くのを優先すべきと主張する。襄の説いた同志社の精神はどこへやら、ナショナリズムを煽り変わり果てた蘇峰の姿に愕然とする八重。
翌年3月、日清間で講和条約が締結。最初から最後まで勇敢に看護に従事、若い看護婦たちを見事に統率した八重は、その功績をたたえられ皇族以外の女性では初となる宝冠章を受章した。八重の叙勲は新聞に掲載され、旧会津の人達を喜ばせる。とりわけ山川家、藤田家(時尾の嫁ぎ先)でも家族集まって盛り上がり、浩(大蔵)は目がしらを熱くして弟の健次郎を呼ぶ。病を得て死期を悟った浩は御宸翰の公表と、執筆途中の『会津守護職始末』の完成を健次郎に託し、明治31年、静かにその生涯を閉じた。会津の命運を一身に背負い、藩士たちを支え続けた、若き家老の最期であった。
同じ年の三月、徳川慶喜は大政奉還以来の念願を叶え、明治天皇に拝謁することで名誉を取り戻した。勝海舟を訪ねた慶喜は、江戸城開城に尽力した勝に礼を言う。しかし無血開城と言ってもそれは名ばかりで会津をはじめとする奥州諸藩がどれだけ血を流し命を失ったか・・・その痛々しさに胸をつかれ、勝は瞑目した。
それからまもなくして、健次郎が大山に呼び出される。御宸翰の公表と会津守護職始末の刊行を見合わせるよう談判する大山。内閣の伊藤博文に、御宸翰が会津松平家にあったという事実は、漏れていたのだ。著者が東京(帝国)大学の山川健次郎と知り、政府は 山川と姻戚関係にある大山を使って待ったをかけたのだった。慶喜が名誉回復を遂げた上は、会津や容保の汚名をそそがれるべきだと主張する健次郎に、「永久に封印してくれとは言わん。しばらく待ってほしい、国家の安寧のためにごわす」と頼み込む。しかし、大蔵に代わり亡き大殿と会津の人々の思いを背負っている健次郎も譲らない。「時がくるのを待って、いずれ必ず刊行します」
だが実際、山川兄弟が書き継いだ会津復権への道が開かれるには、なお十年の歳月を要した。
叙勲は名誉でも、戦のない世を願う八重は、晴れない気持ちを抱いたまま故郷・会津を訪れる。母の佐久と登美、姪の久枝も世を去って久しく、八重は城下のはずれに立つ懐かしい桜と語らおうとやってきたのだ。そこで思いがけない人物と再会を果たす。頼母であった。昔八重ともこの木の前で語らった自分はいまやただの桜守り爺だと優しく笑う頼母に、八重はまたロシアとの戦が起ころうとしていること、戦のない世の中はこないのか、と心の憂いを打ち明ける。頼母は、会津を滅ぼした新政府がどんな国を作るのか30年生き恥を晒して生きてきたが、到達したのは人は結局痛みと共に生きて行くという境地だった、と話す。
「八重、にしは桜だ。花が散っても、時がくればまた花をさかせる・・・何度でも、何度でも花を咲かせろ」
舞い散る花びらの向こうに、抜けるような青空が広がっていた。
この頃、裏千家の家元・圓能斎に師事し、めきめきと茶道の腕をあげていた八重は、京に滞在している蘇峰を呼び、茶室に招く。薄茶を喫しながも時計の針ばかり気にしている蘇峰に、八重は 同志社にきた頃の蘇峰は、自分の目で見た世の中の真実を伝えたいと話していたことを告げる。すると蘇峰は「だからこそ新聞も雑誌もこの手で作った。言論が人を動かす時代がきたのです・・・私は国家を愛する者です」と答える。「ジョーも愛国者でしたよ。でも、ジョーが愛した国というのは、そこに暮らす人間のことです」と、八重。蘇峰の目がはっと開かれる。
「昔、私は銃を持って戦った。一人でも多く敵を倒すために・・・だけんじょ、もしも今・・・」八重のまぶたに、鶴ヶ城で最後の弾を銃に装着していた自分の姿が浮かぶ。そこに、デジャヴュのように、今の自分が現れ、時空を超えてふたりの八重が対峙する。もう、決して人を撃ったりはしないーー八重は最後の引き金をひく。空に向けて。
撃つのは、空を、世の中を蔽っている暗雲に向けて、だ。銃弾がまっすぐに黑雲を引き裂いていく。
ゆっくりと目を開けたとき、空にかかっていた雲が切れ、きらめく陽光があたりを包むのだった。
完
※八重が最も愛した聖歌で、葬儀の際に栄光館でも歌われた、賛美歌294番「みめぐみゆたけき」
クリック→http://www.youtube.com/watch?v=9C_dKhF4fHM
ドラマでも、八重と襄の重要なシーンでよく流れていました (aiaiさま感謝です)
八重の桜第50話(最終回)ぷち・ギャラリー
<日清戦争従軍看護の現場>

若い看護婦たちを統率する八重

衛生兵「清国の兵か!赤十字の協定にも入っとらんくせに」
「敵なればとて傷を受くるもの仁愛をもって助けよ」

・・・これは大山司令官閣下の訓示です。お忘れですか?
赤痢患者「あんた、感染ったらどうするんだ!」

大丈夫です。体を拭いましょうね。(伝染病患者をも看護する八重)
衛生兵ったら、女子がしゃしゃりでるなって、悔しいな。

八重「初めてのことにはいつでも反対する人がいんだし・・・道は私たちが作ればいい」
亡くなった兵士たちに祈りを

<取材に、陸軍病院を訪ねてきた徳富蘇峰>
名誉の負傷の方々に、戦地の話をば、聞かせてもらいます

今は士気を鼓舞する記事をば優先するときです。
徳富さん、もっとしっかり伝えるべき事があるはず・・・戦地の衛生向上に力を入れるように書いて

私たち看護婦だって感染の危険と隣り合わせで働いているのですよ。
<変わり果てた蘇峰に、板垣は>
おぬし、最初にわしのところに来たがは、確か新島さんの紹介やったろ?

あの人の弟子が強行外交を唱えるがか?
国権の拡張は、国民の望み・・大いに武装すべきことを世論に訴える!それが新聞の使命たい!

板垣先生は、もう古か。
所詮兄貴は体勢に流されてよじれているだけたい

俺は流されん・・・小説の中で本当の人間ば書いてみせる。
不如帰;ほととぎす

<茶道を本格的に学びだした八重>
鉄砲をやりでぃって言い出したころから、八重は変わんねぇなぁ

武士の娘だから、始めたことは極めるまでひけねぇだし。
八重が動けば何かが始まる・・・

<叙勲が授けられ>
新島八重を勲七等に叙し宝冠章を授ける!

勲章? 私が・?
看護婦をまとめ傷病兵の看護につくした功で叙勲される八重

パシャッ 撮影
時尾「八重さんが!八重さんが、勲章を・・・!!」

喜ぶ会津のひとびと
民間人で初めて勲章授かるのが会津の女子だ・・!

誇らしい
朗報を知った病床の大蔵も・・・

会津が名誉を取り戻す日はきっと来る!
そろそろ世に出すときが来たのではないか?帝より賜った御宸翰を・・・

健次郎! あとはお前に託す・・・ 「はいっ!」
<月日が過ぎて 復権が叶った徳川慶喜>
今でも時折思い出す・・・会津が京都守護職を引き受けたときのことを

凶が出るとわかっていていながら、くじをひくようなものだったに
<御宸翰が世に出ることを危惧し、自宅に健次郎を呼ぶ大山巌>
健次郎「大山殿、私は亡き大勢の人々の無念を背負っています」
大山「しばらく待ってくんやんせ・・どこで道が分かれたとか考えてみたか?」

健次郎「永久に封印はできん!」 大山「それで・・・よか」
<ふたたび会津の地を踏んだ八重>

花咲かじいさんになっていた頼母

や・・八重か!?
八重「お久しぶりでごぜえやす」

頼母「戊辰以来、わしの眼に焼きついたのは、なんぼ苦しいときでも懸命に生きようとする人の姿・・・

笑おうとする人の健気さ、そればっかりが俺の心を、胸を揺さぶんだ・・・八重、にしもそうだろ?

花は散らす風を恨まねぇ・・・ただ一生懸命に咲いている。

八重! にしは桜だ。花は散っても、時がくっとまた花を咲かせる
何度でも、何度でも花咲かせろ

桜・・・かぁ?

<襄が愛した国というのは、そこに暮らす人間ひとりひとりのこと>
同志社に来たころ、徳富さんは自分の目でみた世の中の本当を伝えたいと言ってた

蘇峰「だからこそ新聞も雑誌もこの手で作った!言論が人を動かす時代が来たんです」
その力を何に使うんですか?人を動かすその大きな力を・・・

力は未来を開くために使わねばなんねぇよ。
もしも今私が最後の1発の銃弾を撃つとしたら・・・

カチャッ

・・・・・・

ズギューン

空を撃つ八重 黒雲が晴れ光のなか降ってくるはなびら

私は・・・・・・ あきらめねぇ!
八重の桜第50回(最終回)こんなところが好き!感想
「私は、あきらめねえ」
やはり、この台詞がラストに来ましたね。
予測を裏切らず、素晴らしかったです。八重の桜最終回。
いま、八重の鉄砲で胸を撃たれ、ぽっかり空いたその風穴にひゅうっと風がふきぬけている、そんな境地です。
でも、これは悲しみを含んだ冷たい風ではありません。
ピンク色に染まった、希望のいう名の桜吹雪のような・・・
うまく言えないのですが、終わりというより、これからすべてが始まっていくような。
デジャヴュしながら、あのオープニングの桜の螺旋の様に、あらゆる次元の八重が、転んでは立ち上がり、新しい世界を切り開いては花を咲かせていくような、万華鏡を見ている心地。
とめどなく流れる涙が、その八重ワールドを花霞のように縁取っています。
オープニングといえば、皆さんきっとお気づきですね。今回 冒頭に流れた曲は、八重がが特に愛した讃美歌で、テーマも「みめぐみゆたけき」。八重さんの告別式礼拝でも、この曲が歌われたそうです。
同志社コーラス出身の方から聞き、私も48話で初めて知ったのですが、聴くほどに美しい、 まさに、天上のしらべ・・・天使が舞っているように、心洗われる曲ですね。
そういえば、これまで『八重の桜』では、襄と八重の重要な場面では必ずこの曲が流れていましたね。
最終回の余韻で感無量で、今日は取るもの手につかず、とりとめのない文章ですが、50話のみの感想というよりは、八重の桜50話通してこころに残った、こんなこと、あんなことを思うがままに綴りたいと思います。
思えば、今年は桜year・・・八重さんと共に一年を追ってきた気がします。
季節感たっぷりの映像に呼応するように、全体を通したストーリーにも四季感がある不思議なこのドラマ、八重さんは 春夏秋冬、美しく彩ってくれました。
八重と鉄砲を結びつけた若殿との出会い、たまゆらに淡いロマンスにじむ春、
スペンサー銃を持って、真っ赤に燃える鶴ヶ城から出陣していく会津戦争は夏、
襄と大学を作りながら人生の実りを楽しむ時代は秋、
そして自分の生きざまを見つめ、大切な事を後世(次の春)へ伝えてゆく、晩年の八重は冬・・・
八重はどの季節も新鮮な感動を与えてくれた気がします。
そしてまた、季節はめぐる・・・50回目の春を連れてきてくれた花咲か爺さんは、桜の仙人のような、あの頼母でした。もう、すべてが許容できる嬉しいサプライズ。
思えば、頼母が籠城戦の鶴ヶ城を去った時、「頼母、生きよ」と言った容保の台詞が大きな伏線になっていたことに、いまこそ気付かされます。
容保公にしてみたら、頼母こそが、会津そのものだったのかもしれません。
そして、藩祖保科家に繋がる血を残すことこそが、会津への恩返しだとも・・・。
妻と娘はじめ一族21人が自害して果てた中、頼母は、生き恥さらしても「生きて、生き伸びて新政府軍がどんな世の中を作るのか見届けるまで生きぬく」と言っていた。その彼の目に、いま、映っている世界は、はたして・・・
会津を踏み石にして彼らが作った世界は、会津・戊辰戦争という雛形を、海の外に置き換えただけの、相似形ではないのか。 それより、苦しいときも毎日を懸命に生き、どん底から這い上がって笑おうとする人びとの懸命な姿こそ、心ゆさぶる、と・・・。
その頼母が、八重に、「にしは桜になれ」と言う。
桜は八重にとって会津そのもので、こころの故郷だった。
そしていつしか、八重自身が、ひとの心の拠り所である、桜となっていた・・・
『八重の桜』・・・あらためて、素敵なタイトルです。
しかし、この桜のなんと勇敢なこと。
「八重が動けば何かが始まる」
佐久の言葉は、30年前の鶴ヶ城のおとっつぁまとおっかさまの会話を思い出させます。
権八「八重が鉄砲を学んだことは間違いではなかったかもしんねぇ・・・闇の中でも小さな穴があけば、光が一筋差し込んでくる」
佐久「その穴を開けたのは八重の鉄砲かもしんねぇなぁ」
そんなふうに、時代の壁に風穴を開けつづけてきた八重は、さきがけて咲く、ハンサムウーマンそのもの。
そして今回、
八重が切り開いてくれた道・・・ 以前は、「女性にはきつすぎて出来ないと」陸軍将大山巌でさえ言った、女性看護師達の世界を切り開いていった八重。
「道は、わたしたちが作ればいい」は、八重でしか言えない、心打たれる言葉です。
八重にしてみれば、どの病人も、戦がなければ、故郷で元気で家族と共に暮らしていた筈で、ここに運ばれてくる人たちは、八重にとって三郎であり、権八であり、覚馬だった。だから あたり前のように看護しただけのこと。
そのことが、結果的に思わぬ叙勲という形でやってきただけ。
それでも「民間人で初めて勲章授かるのが会津の女子だ!」と、旧会津の人をどれだけ喜ばせ、勇気づけたことでしょう。
・・に留まらず、これから又女性茶人のさきがけとして、完全に男の世界だった茶道の門戸を女性に広げていこうとする八重のパワーの源は、「義務感」でなくズバリ「学ぶことが楽しい」知的好奇心であったように思います。”知性と品格を磨いた女性には、男子以上に、この世の中を変える力がある”という襄の言葉通り、八重の蒔いた種はいつも実を結び、あらたな分野を切り開き、女性史を塗り替えましたね。
地方小国の会津武家に生まれた少女が、男女の壁や伝統的な因習に負けず、時代のなかで周囲の人を支え、また自身も支えられつつ、八重は女性史という今の私達には不可欠な近代史にどれだけ関与したことでしょう。
歴史とは、華々しい将軍御台所だけが作るものではありません。
時代も違うなら、関わり方も違って当然ですが、このように、直接にも、間接的にも、歴史に関与してきた八重さんのような先人達のおかげで、私達女性は、今の時代あたりまえのように女性の自由と権利を享受しているといって過言ではありません。
もとい、八重のスペンサー銃から放たれる、スピンしてテレビ画面を突き抜け出てきそうな弾の映像、鶴ヶ城攻撃の生々しいシーンと共に、きっと後世まで「映画のよう!」と評価される有名なシーンになりそう。これで三回目ですが、初回と、会津戦争、そして最終回と、時代の節目になるとあらわれ、無言だが、強いメッセージを投げかけます。
冒頭の南北戦争の終結時、草笛さんのナレーションはこうでした。
“内戦は深い傷を残した。
しかし、そこから立ち上がり、
苦しみの先に未来を見つめた人々が
やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく”
「会津が名誉を取り戻す日はきっと来る!」と願いながら・・・
天は、また、その願いを、そう長くは待たせなかった。
正義とのぶつかり合いに敗れ、いわば、闇に葬り去られた「未知の歴史」が、今まさに「既知の歴史」に刻まれていくさまを、こうして 共感とともに追ってきた、私たちが、いる。
幕末の日本に、会津という勇敢で清廉な国があったことを、心から誇りに思います。
何より、八重という凛々しい女性がいたことを・・・。
何事にも屈しない、強い意志が、時代に風穴をあけ、明日を、新しい世界を切り開いていく。
そして、何度でも花を咲かせる。
あなたは、会津そのものだから・・・。
感想 終
八重の桜第50回(最終回)
あ
ら
かると
~これからの八重2 さきがけ女性茶人として~
※「これからの八重1 日本のナイチンゲールとして」はこちらを参照
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1147.html
晩年は女性茶人のさひがけとして
江戸時代まえは完全に男の世界だった茶道が、女性に門戸を広げたのは明治維新後のこと。
八重は女性茶人のさきがけであり、茶道の世界が大きく転換していく原点だと評価されています。
八重が茶道に初めて接したのは、まだ女紅場かで教師をしていたころ。
裏千家の家元の妻である千猶鹿子が女紅場で茶道を教えていたのがきっかけだといいます。襄の死後、八重は正式に裏千家の門を叩き、猶鹿子の息子で当時家元となっていた十三世圓能斎の弟子となりました。
八重が熱中したのは、単に点前の稽古だけではなく、懐石をともなう茶事だった為、手間も費用もかかりました。
高価な茶道具や掛け軸を集めれば、さらに出費はかさみます。八重は、浪費家とのそしりを受けながらも、茶道に没頭します。八重にとって、茶道はただの「趣味」ではなかったからです。
茶会は、女性の躍進と社会的な地位向上のために必要な、社交の場だったのです。看護学校の助教授を務めるなどの社会貢献と並行して、八重は茶名「新島宗竹」を授かり、京都に女性向けの茶道教室を開き、裏千家流を広めたのでした。
(左)底面に八重直筆の「寿」の字が記された「赤楽茶碗 銘寿」

(右)八重旧蔵の名品「南蛮抱桶水再指」(同志社大学茶道部蔵)
晩年のエピソード
晩年、雨に濡れている女学生たちを見た八重が無言で傘を差しだしたという有名なエピソード。
時代を担う若い女性達を大切に思っていた八重は、同志社の学生たちから「新島のおばあちゃん」と呼ばれ、親しまれていました。江戸・明治・大正・昭和と乱世激動の時代を生きた八重はこれまで「悪妻」のイメージが先行しがちでしたが、近代日本を生き抜いた自立心に富んだ女性として、さらには早くから女子教育に関与した女性として、近年評価が高まっています。
1928年、戊辰戦争から61年目、会津最期の藩主であった容保の孫娘の勢津子姫が、皇室(秩父宮)に嫁ぎます。おりしも干支は戊申…この結婚は、皇室と会津の和解を意味していました。
八重はこの成婚を寿ぎ、
「いくとせか 峰にかかれる むら雲の 晴れて嬉しき光をぞみる」
・・・と歌を捧げています。会津藩はここに至って朝敵、逆賊の汚名を返上したのです。
むら雲が晴れて嬉しい、と詠んだのは、すべての旧会津藩士たちの代弁でした。
戊辰戦争から数えて60年経ても、八重は会津の娘だったんですね。
秩父宮に嫁ぐ、会津最後の藩主・容保公の孫の勢津子さま

(皇室と会津藩の和解)

同志社女学校の生徒にも茶道を教えた八重
「八重の桜」最終回 今日のフィーチャー❤
NHKスタジオパーク出演の綾瀬はるか、綾野剛インタビュー
「スタジオパークからこんにちは」12/13放送の綾瀬はるかさんとれとれのインタビューです。^^
会津代表としてもう一人、拙ブログでも人気の高かった容保公;綾野剛さんのスタパ・インタビュー(8/26放送)と対比させながら ダイジェストしてみました。

Q.綾瀬さんが八重を演じて一年経ってかわったこととは?(感想)
自分ではわかりませんが、兄役の西島さんに「どんどん顔が勇ましくなってる」と言われ、八重の凛々しさに近づいてる部分もあるのかな(笑)?と。もうこれで新島八重を演じるのは最後なんだと思うと、その寂しさと安心感など、いろんな感情が渦巻いて、クランクアップを告げられた際、体が震えてしまいました。
NHKスタジオパーク 綾野剛インタビュー

Q.長い間容保公を演じてきてどう思いますか?(感想)
(容保公は)すごく愚直な方ですし、これほどまでに愚直に演じることが難しいことなのかと思いました。歴史上の人物を演じるということは、どこか柔らかい部分もあるんじゃないかと思っていましたけど・・・
僕自身も自分の気持ちで容保公と共に歩んだつもりですが、とてもじゃないけど大変な役です。
Q.容保公と似ていませんか?
顔の薄い感じとか殿に似てますね・・・塩顔・・・調味料顔ですね(笑)

Q.似ているって(皆さんに)言われていかがですか?
恐縮です。演じる前では、そうなの?って終わってましたが、今は演じてますから、
とても似てるなんて、僕なんかと一緒にはできないです。
綾瀬さんの選んだ忘れえぬシーンベスト3

Q.八重のなかで、印象深い思い出のシーンは?
(三つ挙げますが)第49回『再び戦を学ばず』で、ジョーの幻が現れるシーン。
尚之助と別れて八重がふさぎ込んでいるときも「死んだ人はもうどこにも行かない」と言ったピクニックのシーンも印象に残って(つながりつつ)「いつもあなたの傍にいる」という力強い言葉、(綾瀬さん自身も)自分もその言葉を忘れずにいたいと思いました。
49回では 当初、出演予定ではなかったオダギリさん自身「亡霊のジョーは出なくていいんじゃないですか?」と監督にも言っていましたが、監督は「どうしても入れたい」と言い、八重(綾瀬)も「来て欲しい」というので「じゃあ、行きますか」と・・・・・でも、あとで(オダギリさんは)スッゴクいいシーンになりましたね!このシーンやっぱり入れて良かった!と感想を下さいました。
オダギリさんと監督との話が膨らんだ結果、こんな名シーンが出来たんですね。
三つ目に
第48回『グッバイ、また会わん』で、ふさぎ込む八重を、覚馬が一喝するシーン。
ガツン!と来たんですよ。いつも八重の道しるべで、行く先々引っ張って覚馬兄さんのあの一言があったから(襄の死後も)歩かなきゃ!と思わせる大切なきっかけになったのだと。立てない足で、渾身の力で立ち上がって、あの見えない目でにらみつけてきたときは、ゾワーとしました。幼い時から八重は、ずっと覚馬を見て、追ってきたわけですが、お兄ちゃんはいつも言葉は少なくても”縁の下の力持ち”的な存在でした。
「何かあったら、何でもオレに相談して来い。尚之助でも、何でも、話をきく!」とあんつぁまに言われ、実際何かを相談したことは無かったけれど、いつも、この縁の下の力持ちのお兄ちゃんがいてくれるから、心強い気持ちになれたんです。
※それは、西島さんと綾瀬さんの関係とも重なったそうで、その、つながる思いが八重を強くした、といいます。いついつから八重がハンサムウーマンとなった、ならないと区切りをつける偏狭な理屈家もいますが、八重がどんな時代もさきがけて咲くハンサムウーマンとなったのは、また、ハンサムウーマンとして生き続ける彼女を育てたのは他ならぬ覚馬ではなかったでしょうか。自身の素養も勿論あったでしょうが、究極、人を育てるものは、環境と師です。綾瀬さん自身もお兄ちゃんがいるから大丈夫!と自信を持って前に進めたという、縁の下の力持ち、ハンサムウーマンを生み出した立役者は、偉大なる兄つぁまだったと言えるエピソードですね!

Q.視聴者が選ぶ松平容保の名シーンベスト3は?(抜粋)
第2位 八重との出会い
唯一穏やかな表情だったというシーン(一瞬口元が緩んだシーン)
あれ以来笑っていないんです。というか口角が上がっていないんです。意識してやっているんですけど。
後半、容保がどういう表情になっているか注目していただければ幸いですが、せめて1回でもいいから心のそこから容保を通して笑顔という名の気持ちをどこかで表現できたらいいなと思っています。
Q.空飛ぶ広報室との掛け持ちでの気持ちの切り替えはどうしてましたか?
自分ひとりで役作りしているのではないですし、9割は現場で作ってくれていると思うし、1割は心だけ持っていく、10割自分でやっていたら壊れてしまいますから。
Q.綾野剛が選ぶザ・ベストシーンは?
江戸城への登城を禁じられる場面。
精神状態の落ち着きのない状態で言われて、初めて無になった、すっと魂が抜けた感じ、重力がなくなったんです。義とはなんだ、自分が戦ってきたことってなんだったんだろうと思ったら、気付いたら大訓の義をぶつぶつ呪文のように唱えていました。

<撮影を終えて>
最後に、撮影を終えた綾瀬はるかさんは福島に赴かれました。
そして、鶴ヶ城の前で新種のサクラ「はるか」を植樹。「はるか」は、はるかを見据える、から名付けたとか。
10年後の開花が楽しみだと語った綾瀬さん、ふくしまの人達に「元気をもらってますよ」「もうすぐ終わりで寂しい」などの言葉をもらったそう。
「『八重さん!』と声をかけされると、”ああ、帰ってきたんだなぁ”と思うし、会津の町全体がチーム、ふくしまの人達とチームになった気がした。八重の桜に携わったことがとても嬉しいし、自分自身が(福島の方々に)元気をいただいたと感じます」と語る彼女は、本当に素敵な女優さんですね!
綾瀬さんは又、大みそかの「第64回紅白歌合戦」の紅組司会を務めることも決定したそうです。
ちなみに、相手方(男性司会者)は嵐の予定とか。
クランクアップで、「八重たちを通して、光を見つけて前に進むことを少しでも伝えられたらいいなと思う」と答えた綾瀬さん。その願いはきっと届いているような気がします。
綾瀬さんと素敵な仲間達演じる、倒れても倒れても立ち上がる会津と八重の姿・・・美雨も、その姿をずっと胸に刻みつつ、辛い時は貯金みたいに引き出して、元気をもらおうと思います。
そしてまだまだ復興の途上にあるふくしまと東北を、八重さんと共に応援していきたいですね!
美雨
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
天国の新島襄&八重ご夫妻から皆さんに”メリー・クリスマス”

同志社・彰栄館、栄光館のクリスマスツリー (関係者の方が下さいましたm(__)m)
「八重の桜」総集編放送スケジュール
NHK・BSでは12月28日と29日の18:00から
http://www.nhk.or.jp/bs/lineup/pdf/bspremium_thismonth.pdf
NHK総合では1月2日と3日の16:00から
http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/info/#sosyuhen
※八重の桜、全50話レビュー、拙いながら、皆さまのお蔭で完走できました。
いつもご訪問、また優しいご声援、コメント等、一年間本当にありがとうございましたm(__)m
第一話からおなじみ、会津鉄道の名誉駅長”ばす”より

これからも、ずっと会津&ふくしまを応援してくニャンしょ!
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八重の桜OP、BGMにドゾhttp://www.youtube.com/watch?v=6tDZC6aTUxA
八重の桜第50回(最終回)あらすじ
1894(明治27)年、八重(綾瀬はるか)は従軍篤志看護婦として広島陸軍予備病院で看護婦たちの陣頭指揮をとり、日清戦争の負傷兵たちを看護していた。次々と運ばれてくる負傷兵の中には清国の兵もいたが、八重は赤十字の精神に則り、国境の隔てなく心を尽くして看護し、頑なだった敵兵すら八重に心を許し、礼を言う。看護にあたる本来の男性衛生兵達は、敵の清国兵が治療を受けていることや、若い娘が野戦病院も同様の現場にしゃしゃり出るなと文句をつけるが、八重は「敵なればとて、傷を受ける者は仁愛をもって助けよ」と”大山巌閣下の訓示”でピシャリと彼らを抑え、看護の務めには女も男もないと諭す。
この11月、司令官の大山は遼東半島の金州城を攻め落とすと、続いて東洋一の要塞を誇る旅順を陥落させる。
そんな折、広島陸軍病院に、八重と襄の教え子であった徳富蘇峰が、取材と称し訪ねてくる。ジャーナリストとして成功し、メジャー紙の社長となった蘇峰は、戦闘で負傷した兵士から勇猛な話を取材するのだとやっきになっている。八重は、兵士は戦闘だけでなく、コレラや赤痢などの伝染病で亡くなる人も多く、衛生面の向上を紙上で訴えて欲しいと頼む。院内で看護するうち自身も罹患し、命を落とした看護婦も少なくなかったのだ。しかし蘇峰は国民の士気鼓舞する記事を書くのを優先すべきと主張する。襄の説いた同志社の精神はどこへやら、ナショナリズムを煽り変わり果てた蘇峰の姿に愕然とする八重。
翌年3月、日清間で講和条約が締結。最初から最後まで勇敢に看護に従事、若い看護婦たちを見事に統率した八重は、その功績をたたえられ皇族以外の女性では初となる宝冠章を受章した。八重の叙勲は新聞に掲載され、旧会津の人達を喜ばせる。とりわけ山川家、藤田家(時尾の嫁ぎ先)でも家族集まって盛り上がり、浩(大蔵)は目がしらを熱くして弟の健次郎を呼ぶ。病を得て死期を悟った浩は御宸翰の公表と、執筆途中の『会津守護職始末』の完成を健次郎に託し、明治31年、静かにその生涯を閉じた。会津の命運を一身に背負い、藩士たちを支え続けた、若き家老の最期であった。
同じ年の三月、徳川慶喜は大政奉還以来の念願を叶え、明治天皇に拝謁することで名誉を取り戻した。勝海舟を訪ねた慶喜は、江戸城開城に尽力した勝に礼を言う。しかし無血開城と言ってもそれは名ばかりで会津をはじめとする奥州諸藩がどれだけ血を流し命を失ったか・・・その痛々しさに胸をつかれ、勝は瞑目した。
それからまもなくして、健次郎が大山に呼び出される。御宸翰の公表と会津守護職始末の刊行を見合わせるよう談判する大山。内閣の伊藤博文に、御宸翰が会津松平家にあったという事実は、漏れていたのだ。著者が東京(帝国)大学の山川健次郎と知り、政府は 山川と姻戚関係にある大山を使って待ったをかけたのだった。慶喜が名誉回復を遂げた上は、会津や容保の汚名をそそがれるべきだと主張する健次郎に、「永久に封印してくれとは言わん。しばらく待ってほしい、国家の安寧のためにごわす」と頼み込む。しかし、大蔵に代わり亡き大殿と会津の人々の思いを背負っている健次郎も譲らない。「時がくるのを待って、いずれ必ず刊行します」
だが実際、山川兄弟が書き継いだ会津復権への道が開かれるには、なお十年の歳月を要した。
叙勲は名誉でも、戦のない世を願う八重は、晴れない気持ちを抱いたまま故郷・会津を訪れる。母の佐久と登美、姪の久枝も世を去って久しく、八重は城下のはずれに立つ懐かしい桜と語らおうとやってきたのだ。そこで思いがけない人物と再会を果たす。頼母であった。昔八重ともこの木の前で語らった自分はいまやただの桜守り爺だと優しく笑う頼母に、八重はまたロシアとの戦が起ころうとしていること、戦のない世の中はこないのか、と心の憂いを打ち明ける。頼母は、会津を滅ぼした新政府がどんな国を作るのか30年生き恥を晒して生きてきたが、到達したのは人は結局痛みと共に生きて行くという境地だった、と話す。
「八重、にしは桜だ。花が散っても、時がくればまた花をさかせる・・・何度でも、何度でも花を咲かせろ」
舞い散る花びらの向こうに、抜けるような青空が広がっていた。
この頃、裏千家の家元・圓能斎に師事し、めきめきと茶道の腕をあげていた八重は、京に滞在している蘇峰を呼び、茶室に招く。薄茶を喫しながも時計の針ばかり気にしている蘇峰に、八重は 同志社にきた頃の蘇峰は、自分の目で見た世の中の真実を伝えたいと話していたことを告げる。すると蘇峰は「だからこそ新聞も雑誌もこの手で作った。言論が人を動かす時代がきたのです・・・私は国家を愛する者です」と答える。「ジョーも愛国者でしたよ。でも、ジョーが愛した国というのは、そこに暮らす人間のことです」と、八重。蘇峰の目がはっと開かれる。
「昔、私は銃を持って戦った。一人でも多く敵を倒すために・・・だけんじょ、もしも今・・・」八重のまぶたに、鶴ヶ城で最後の弾を銃に装着していた自分の姿が浮かぶ。そこに、デジャヴュのように、今の自分が現れ、時空を超えてふたりの八重が対峙する。もう、決して人を撃ったりはしないーー八重は最後の引き金をひく。空に向けて。
撃つのは、空を、世の中を蔽っている暗雲に向けて、だ。銃弾がまっすぐに黑雲を引き裂いていく。
ゆっくりと目を開けたとき、空にかかっていた雲が切れ、きらめく陽光があたりを包むのだった。
完
※八重が最も愛した聖歌で、葬儀の際に栄光館でも歌われた、賛美歌294番「みめぐみゆたけき」
クリック→http://www.youtube.com/watch?v=9C_dKhF4fHM
ドラマでも、八重と襄の重要なシーンでよく流れていました (aiaiさま感謝です)
八重の桜第50話(最終回)ぷち・ギャラリー
<日清戦争従軍看護の現場>

若い看護婦たちを統率する八重

衛生兵「清国の兵か!赤十字の協定にも入っとらんくせに」
「敵なればとて傷を受くるもの仁愛をもって助けよ」

・・・これは大山司令官閣下の訓示です。お忘れですか?
赤痢患者「あんた、感染ったらどうするんだ!」

大丈夫です。体を拭いましょうね。(伝染病患者をも看護する八重)
衛生兵ったら、女子がしゃしゃりでるなって、悔しいな。

八重「初めてのことにはいつでも反対する人がいんだし・・・道は私たちが作ればいい」
亡くなった兵士たちに祈りを

<取材に、陸軍病院を訪ねてきた徳富蘇峰>
名誉の負傷の方々に、戦地の話をば、聞かせてもらいます

今は士気を鼓舞する記事をば優先するときです。
徳富さん、もっとしっかり伝えるべき事があるはず・・・戦地の衛生向上に力を入れるように書いて

私たち看護婦だって感染の危険と隣り合わせで働いているのですよ。
<変わり果てた蘇峰に、板垣は>
おぬし、最初にわしのところに来たがは、確か新島さんの紹介やったろ?

あの人の弟子が強行外交を唱えるがか?
国権の拡張は、国民の望み・・大いに武装すべきことを世論に訴える!それが新聞の使命たい!

板垣先生は、もう古か。
所詮兄貴は体勢に流されてよじれているだけたい

俺は流されん・・・小説の中で本当の人間ば書いてみせる。
不如帰;ほととぎす

<茶道を本格的に学びだした八重>
鉄砲をやりでぃって言い出したころから、八重は変わんねぇなぁ

武士の娘だから、始めたことは極めるまでひけねぇだし。
八重が動けば何かが始まる・・・

<叙勲が授けられ>
新島八重を勲七等に叙し宝冠章を授ける!

勲章? 私が・?
看護婦をまとめ傷病兵の看護につくした功で叙勲される八重

パシャッ 撮影
時尾「八重さんが!八重さんが、勲章を・・・!!」

喜ぶ会津のひとびと
民間人で初めて勲章授かるのが会津の女子だ・・!

誇らしい
朗報を知った病床の大蔵も・・・

会津が名誉を取り戻す日はきっと来る!
そろそろ世に出すときが来たのではないか?帝より賜った御宸翰を・・・

健次郎! あとはお前に託す・・・ 「はいっ!」
<月日が過ぎて 復権が叶った徳川慶喜>
今でも時折思い出す・・・会津が京都守護職を引き受けたときのことを

凶が出るとわかっていていながら、くじをひくようなものだったに
<御宸翰が世に出ることを危惧し、自宅に健次郎を呼ぶ大山巌>
健次郎「大山殿、私は亡き大勢の人々の無念を背負っています」
大山「しばらく待ってくんやんせ・・どこで道が分かれたとか考えてみたか?」

健次郎「永久に封印はできん!」 大山「それで・・・よか」
<ふたたび会津の地を踏んだ八重>

花咲かじいさんになっていた頼母

や・・八重か!?
八重「お久しぶりでごぜえやす」

頼母「戊辰以来、わしの眼に焼きついたのは、なんぼ苦しいときでも懸命に生きようとする人の姿・・・

笑おうとする人の健気さ、そればっかりが俺の心を、胸を揺さぶんだ・・・八重、にしもそうだろ?

花は散らす風を恨まねぇ・・・ただ一生懸命に咲いている。

八重! にしは桜だ。花は散っても、時がくっとまた花を咲かせる
何度でも、何度でも花咲かせろ

桜・・・かぁ?

<襄が愛した国というのは、そこに暮らす人間ひとりひとりのこと>
同志社に来たころ、徳富さんは自分の目でみた世の中の本当を伝えたいと言ってた

蘇峰「だからこそ新聞も雑誌もこの手で作った!言論が人を動かす時代が来たんです」
その力を何に使うんですか?人を動かすその大きな力を・・・

力は未来を開くために使わねばなんねぇよ。
もしも今私が最後の1発の銃弾を撃つとしたら・・・

カチャッ

・・・・・・

ズギューン

空を撃つ八重 黒雲が晴れ光のなか降ってくるはなびら

私は・・・・・・ あきらめねぇ!
八重の桜第50回(最終回)こんなところが好き!感想
「私は、あきらめねえ」
やはり、この台詞がラストに来ましたね。
予測を裏切らず、素晴らしかったです。八重の桜最終回。
いま、八重の鉄砲で胸を撃たれ、ぽっかり空いたその風穴にひゅうっと風がふきぬけている、そんな境地です。
でも、これは悲しみを含んだ冷たい風ではありません。
ピンク色に染まった、希望のいう名の桜吹雪のような・・・
うまく言えないのですが、終わりというより、これからすべてが始まっていくような。
デジャヴュしながら、あのオープニングの桜の螺旋の様に、あらゆる次元の八重が、転んでは立ち上がり、新しい世界を切り開いては花を咲かせていくような、万華鏡を見ている心地。
とめどなく流れる涙が、その八重ワールドを花霞のように縁取っています。
オープニングといえば、皆さんきっとお気づきですね。今回 冒頭に流れた曲は、八重がが特に愛した讃美歌で、テーマも「みめぐみゆたけき」。八重さんの告別式礼拝でも、この曲が歌われたそうです。
同志社コーラス出身の方から聞き、私も48話で初めて知ったのですが、聴くほどに美しい、 まさに、天上のしらべ・・・天使が舞っているように、心洗われる曲ですね。
そういえば、これまで『八重の桜』では、襄と八重の重要な場面では必ずこの曲が流れていましたね。
最終回の余韻で感無量で、今日は取るもの手につかず、とりとめのない文章ですが、50話のみの感想というよりは、八重の桜50話通してこころに残った、こんなこと、あんなことを思うがままに綴りたいと思います。
思えば、今年は桜year・・・八重さんと共に一年を追ってきた気がします。
季節感たっぷりの映像に呼応するように、全体を通したストーリーにも四季感がある不思議なこのドラマ、八重さんは 春夏秋冬、美しく彩ってくれました。
八重と鉄砲を結びつけた若殿との出会い、たまゆらに淡いロマンスにじむ春、
スペンサー銃を持って、真っ赤に燃える鶴ヶ城から出陣していく会津戦争は夏、
襄と大学を作りながら人生の実りを楽しむ時代は秋、
そして自分の生きざまを見つめ、大切な事を後世(次の春)へ伝えてゆく、晩年の八重は冬・・・
八重はどの季節も新鮮な感動を与えてくれた気がします。
そしてまた、季節はめぐる・・・50回目の春を連れてきてくれた花咲か爺さんは、桜の仙人のような、あの頼母でした。もう、すべてが許容できる嬉しいサプライズ。
思えば、頼母が籠城戦の鶴ヶ城を去った時、「頼母、生きよ」と言った容保の台詞が大きな伏線になっていたことに、いまこそ気付かされます。
容保公にしてみたら、頼母こそが、会津そのものだったのかもしれません。
そして、藩祖保科家に繋がる血を残すことこそが、会津への恩返しだとも・・・。
妻と娘はじめ一族21人が自害して果てた中、頼母は、生き恥さらしても「生きて、生き伸びて新政府軍がどんな世の中を作るのか見届けるまで生きぬく」と言っていた。その彼の目に、いま、映っている世界は、はたして・・・
会津を踏み石にして彼らが作った世界は、会津・戊辰戦争という雛形を、海の外に置き換えただけの、相似形ではないのか。 それより、苦しいときも毎日を懸命に生き、どん底から這い上がって笑おうとする人びとの懸命な姿こそ、心ゆさぶる、と・・・。
その頼母が、八重に、「にしは桜になれ」と言う。
桜は八重にとって会津そのもので、こころの故郷だった。
そしていつしか、八重自身が、ひとの心の拠り所である、桜となっていた・・・
『八重の桜』・・・あらためて、素敵なタイトルです。
しかし、この桜のなんと勇敢なこと。
「八重が動けば何かが始まる」
佐久の言葉は、30年前の鶴ヶ城のおとっつぁまとおっかさまの会話を思い出させます。
権八「八重が鉄砲を学んだことは間違いではなかったかもしんねぇ・・・闇の中でも小さな穴があけば、光が一筋差し込んでくる」
佐久「その穴を開けたのは八重の鉄砲かもしんねぇなぁ」
そんなふうに、時代の壁に風穴を開けつづけてきた八重は、さきがけて咲く、ハンサムウーマンそのもの。
そして今回、
八重が切り開いてくれた道・・・ 以前は、「女性にはきつすぎて出来ないと」陸軍将大山巌でさえ言った、女性看護師達の世界を切り開いていった八重。
「道は、わたしたちが作ればいい」は、八重でしか言えない、心打たれる言葉です。
八重にしてみれば、どの病人も、戦がなければ、故郷で元気で家族と共に暮らしていた筈で、ここに運ばれてくる人たちは、八重にとって三郎であり、権八であり、覚馬だった。だから あたり前のように看護しただけのこと。
そのことが、結果的に思わぬ叙勲という形でやってきただけ。
それでも「民間人で初めて勲章授かるのが会津の女子だ!」と、旧会津の人をどれだけ喜ばせ、勇気づけたことでしょう。
・・に留まらず、これから又女性茶人のさきがけとして、完全に男の世界だった茶道の門戸を女性に広げていこうとする八重のパワーの源は、「義務感」でなくズバリ「学ぶことが楽しい」知的好奇心であったように思います。”知性と品格を磨いた女性には、男子以上に、この世の中を変える力がある”という襄の言葉通り、八重の蒔いた種はいつも実を結び、あらたな分野を切り開き、女性史を塗り替えましたね。
地方小国の会津武家に生まれた少女が、男女の壁や伝統的な因習に負けず、時代のなかで周囲の人を支え、また自身も支えられつつ、八重は女性史という今の私達には不可欠な近代史にどれだけ関与したことでしょう。
歴史とは、華々しい将軍御台所だけが作るものではありません。
時代も違うなら、関わり方も違って当然ですが、このように、直接にも、間接的にも、歴史に関与してきた八重さんのような先人達のおかげで、私達女性は、今の時代あたりまえのように女性の自由と権利を享受しているといって過言ではありません。
もとい、八重のスペンサー銃から放たれる、スピンしてテレビ画面を突き抜け出てきそうな弾の映像、鶴ヶ城攻撃の生々しいシーンと共に、きっと後世まで「映画のよう!」と評価される有名なシーンになりそう。これで三回目ですが、初回と、会津戦争、そして最終回と、時代の節目になるとあらわれ、無言だが、強いメッセージを投げかけます。
冒頭の南北戦争の終結時、草笛さんのナレーションはこうでした。
“内戦は深い傷を残した。
しかし、そこから立ち上がり、
苦しみの先に未来を見つめた人々が
やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく”
「会津が名誉を取り戻す日はきっと来る!」と願いながら・・・
天は、また、その願いを、そう長くは待たせなかった。
正義とのぶつかり合いに敗れ、いわば、闇に葬り去られた「未知の歴史」が、今まさに「既知の歴史」に刻まれていくさまを、こうして 共感とともに追ってきた、私たちが、いる。
幕末の日本に、会津という勇敢で清廉な国があったことを、心から誇りに思います。
何より、八重という凛々しい女性がいたことを・・・。
何事にも屈しない、強い意志が、時代に風穴をあけ、明日を、新しい世界を切り開いていく。
そして、何度でも花を咲かせる。
あなたは、会津そのものだから・・・。
感想 終
八重の桜第50回(最終回)



~これからの八重2 さきがけ女性茶人として~
※「これからの八重1 日本のナイチンゲールとして」はこちらを参照
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1147.html
晩年は女性茶人のさひがけとして
江戸時代まえは完全に男の世界だった茶道が、女性に門戸を広げたのは明治維新後のこと。
八重は女性茶人のさきがけであり、茶道の世界が大きく転換していく原点だと評価されています。
八重が茶道に初めて接したのは、まだ女紅場かで教師をしていたころ。
裏千家の家元の妻である千猶鹿子が女紅場で茶道を教えていたのがきっかけだといいます。襄の死後、八重は正式に裏千家の門を叩き、猶鹿子の息子で当時家元となっていた十三世圓能斎の弟子となりました。
八重が熱中したのは、単に点前の稽古だけではなく、懐石をともなう茶事だった為、手間も費用もかかりました。
高価な茶道具や掛け軸を集めれば、さらに出費はかさみます。八重は、浪費家とのそしりを受けながらも、茶道に没頭します。八重にとって、茶道はただの「趣味」ではなかったからです。
茶会は、女性の躍進と社会的な地位向上のために必要な、社交の場だったのです。看護学校の助教授を務めるなどの社会貢献と並行して、八重は茶名「新島宗竹」を授かり、京都に女性向けの茶道教室を開き、裏千家流を広めたのでした。
(左)底面に八重直筆の「寿」の字が記された「赤楽茶碗 銘寿」

(右)八重旧蔵の名品「南蛮抱桶水再指」(同志社大学茶道部蔵)
晩年のエピソード
晩年、雨に濡れている女学生たちを見た八重が無言で傘を差しだしたという有名なエピソード。
時代を担う若い女性達を大切に思っていた八重は、同志社の学生たちから「新島のおばあちゃん」と呼ばれ、親しまれていました。江戸・明治・大正・昭和と乱世激動の時代を生きた八重はこれまで「悪妻」のイメージが先行しがちでしたが、近代日本を生き抜いた自立心に富んだ女性として、さらには早くから女子教育に関与した女性として、近年評価が高まっています。
1928年、戊辰戦争から61年目、会津最期の藩主であった容保の孫娘の勢津子姫が、皇室(秩父宮)に嫁ぎます。おりしも干支は戊申…この結婚は、皇室と会津の和解を意味していました。
八重はこの成婚を寿ぎ、
「いくとせか 峰にかかれる むら雲の 晴れて嬉しき光をぞみる」
・・・と歌を捧げています。会津藩はここに至って朝敵、逆賊の汚名を返上したのです。
むら雲が晴れて嬉しい、と詠んだのは、すべての旧会津藩士たちの代弁でした。
戊辰戦争から数えて60年経ても、八重は会津の娘だったんですね。
秩父宮に嫁ぐ、会津最後の藩主・容保公の孫の勢津子さま

(皇室と会津藩の和解)

同志社女学校の生徒にも茶道を教えた八重
「八重の桜」最終回 今日のフィーチャー❤
NHKスタジオパーク出演の綾瀬はるか、綾野剛インタビュー
「スタジオパークからこんにちは」12/13放送の綾瀬はるかさんとれとれのインタビューです。^^
会津代表としてもう一人、拙ブログでも人気の高かった容保公;綾野剛さんのスタパ・インタビュー(8/26放送)と対比させながら ダイジェストしてみました。

Q.綾瀬さんが八重を演じて一年経ってかわったこととは?(感想)
自分ではわかりませんが、兄役の西島さんに「どんどん顔が勇ましくなってる」と言われ、八重の凛々しさに近づいてる部分もあるのかな(笑)?と。もうこれで新島八重を演じるのは最後なんだと思うと、その寂しさと安心感など、いろんな感情が渦巻いて、クランクアップを告げられた際、体が震えてしまいました。
NHKスタジオパーク 綾野剛インタビュー

Q.長い間容保公を演じてきてどう思いますか?(感想)
(容保公は)すごく愚直な方ですし、これほどまでに愚直に演じることが難しいことなのかと思いました。歴史上の人物を演じるということは、どこか柔らかい部分もあるんじゃないかと思っていましたけど・・・
僕自身も自分の気持ちで容保公と共に歩んだつもりですが、とてもじゃないけど大変な役です。
Q.容保公と似ていませんか?
顔の薄い感じとか殿に似てますね・・・塩顔・・・調味料顔ですね(笑)

Q.似ているって(皆さんに)言われていかがですか?
恐縮です。演じる前では、そうなの?って終わってましたが、今は演じてますから、
とても似てるなんて、僕なんかと一緒にはできないです。
綾瀬さんの選んだ忘れえぬシーンベスト3

Q.八重のなかで、印象深い思い出のシーンは?
(三つ挙げますが)第49回『再び戦を学ばず』で、ジョーの幻が現れるシーン。
尚之助と別れて八重がふさぎ込んでいるときも「死んだ人はもうどこにも行かない」と言ったピクニックのシーンも印象に残って(つながりつつ)「いつもあなたの傍にいる」という力強い言葉、(綾瀬さん自身も)自分もその言葉を忘れずにいたいと思いました。
49回では 当初、出演予定ではなかったオダギリさん自身「亡霊のジョーは出なくていいんじゃないですか?」と監督にも言っていましたが、監督は「どうしても入れたい」と言い、八重(綾瀬)も「来て欲しい」というので「じゃあ、行きますか」と・・・・・でも、あとで(オダギリさんは)スッゴクいいシーンになりましたね!このシーンやっぱり入れて良かった!と感想を下さいました。
オダギリさんと監督との話が膨らんだ結果、こんな名シーンが出来たんですね。
三つ目に
第48回『グッバイ、また会わん』で、ふさぎ込む八重を、覚馬が一喝するシーン。
ガツン!と来たんですよ。いつも八重の道しるべで、行く先々引っ張って覚馬兄さんのあの一言があったから(襄の死後も)歩かなきゃ!と思わせる大切なきっかけになったのだと。立てない足で、渾身の力で立ち上がって、あの見えない目でにらみつけてきたときは、ゾワーとしました。幼い時から八重は、ずっと覚馬を見て、追ってきたわけですが、お兄ちゃんはいつも言葉は少なくても”縁の下の力持ち”的な存在でした。
「何かあったら、何でもオレに相談して来い。尚之助でも、何でも、話をきく!」とあんつぁまに言われ、実際何かを相談したことは無かったけれど、いつも、この縁の下の力持ちのお兄ちゃんがいてくれるから、心強い気持ちになれたんです。
※それは、西島さんと綾瀬さんの関係とも重なったそうで、その、つながる思いが八重を強くした、といいます。いついつから八重がハンサムウーマンとなった、ならないと区切りをつける偏狭な理屈家もいますが、八重がどんな時代もさきがけて咲くハンサムウーマンとなったのは、また、ハンサムウーマンとして生き続ける彼女を育てたのは他ならぬ覚馬ではなかったでしょうか。自身の素養も勿論あったでしょうが、究極、人を育てるものは、環境と師です。綾瀬さん自身もお兄ちゃんがいるから大丈夫!と自信を持って前に進めたという、縁の下の力持ち、ハンサムウーマンを生み出した立役者は、偉大なる兄つぁまだったと言えるエピソードですね!

Q.視聴者が選ぶ松平容保の名シーンベスト3は?(抜粋)
第2位 八重との出会い
唯一穏やかな表情だったというシーン(一瞬口元が緩んだシーン)
あれ以来笑っていないんです。というか口角が上がっていないんです。意識してやっているんですけど。
後半、容保がどういう表情になっているか注目していただければ幸いですが、せめて1回でもいいから心のそこから容保を通して笑顔という名の気持ちをどこかで表現できたらいいなと思っています。
Q.空飛ぶ広報室との掛け持ちでの気持ちの切り替えはどうしてましたか?
自分ひとりで役作りしているのではないですし、9割は現場で作ってくれていると思うし、1割は心だけ持っていく、10割自分でやっていたら壊れてしまいますから。
Q.綾野剛が選ぶザ・ベストシーンは?
江戸城への登城を禁じられる場面。
精神状態の落ち着きのない状態で言われて、初めて無になった、すっと魂が抜けた感じ、重力がなくなったんです。義とはなんだ、自分が戦ってきたことってなんだったんだろうと思ったら、気付いたら大訓の義をぶつぶつ呪文のように唱えていました。

<撮影を終えて>
最後に、撮影を終えた綾瀬はるかさんは福島に赴かれました。
そして、鶴ヶ城の前で新種のサクラ「はるか」を植樹。「はるか」は、はるかを見据える、から名付けたとか。
10年後の開花が楽しみだと語った綾瀬さん、ふくしまの人達に「元気をもらってますよ」「もうすぐ終わりで寂しい」などの言葉をもらったそう。
「『八重さん!』と声をかけされると、”ああ、帰ってきたんだなぁ”と思うし、会津の町全体がチーム、ふくしまの人達とチームになった気がした。八重の桜に携わったことがとても嬉しいし、自分自身が(福島の方々に)元気をいただいたと感じます」と語る彼女は、本当に素敵な女優さんですね!
綾瀬さんは又、大みそかの「第64回紅白歌合戦」の紅組司会を務めることも決定したそうです。
ちなみに、相手方(男性司会者)は嵐の予定とか。
クランクアップで、「八重たちを通して、光を見つけて前に進むことを少しでも伝えられたらいいなと思う」と答えた綾瀬さん。その願いはきっと届いているような気がします。
綾瀬さんと素敵な仲間達演じる、倒れても倒れても立ち上がる会津と八重の姿・・・美雨も、その姿をずっと胸に刻みつつ、辛い時は貯金みたいに引き出して、元気をもらおうと思います。
そしてまだまだ復興の途上にあるふくしまと東北を、八重さんと共に応援していきたいですね!
美雨
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
天国の新島襄&八重ご夫妻から皆さんに”メリー・クリスマス”

同志社・彰栄館、栄光館のクリスマスツリー (関係者の方が下さいましたm(__)m)
「八重の桜」総集編放送スケジュール
NHK・BSでは12月28日と29日の18:00から
http://www.nhk.or.jp/bs/lineup/pdf/bspremium_thismonth.pdf
NHK総合では1月2日と3日の16:00から
http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/info/#sosyuhen
※八重の桜、全50話レビュー、拙いながら、皆さまのお蔭で完走できました。
いつもご訪問、また優しいご声援、コメント等、一年間本当にありがとうございましたm(__)m
第一話からおなじみ、会津鉄道の名誉駅長”ばす”より

これからも、ずっと会津&ふくしまを応援してくニャンしょ!
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